古代王城の建設と将門の敗死

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天慶二年冬、将門は再び常陸国の紛争に介入した。その頃常陸国に藤原玄明(はるあき)という土豪がいた。彼は農民から多数の田地を掠取し、官物を納めず、部内の人民を苦しめていて、武蔵武芝とは対称的な土豪で、人々から乱人と呼ばれていた。この玄明に対し常陸介藤原維幾(これちか)がしばしば官物の納入を請求したが従わなかったので追捕しようとした。玄明は下総に逃れ将門を頼った。将門はこれを庇護し、維幾と対立して、十一月に貞盛・維幾連合軍を打破り、維幾以下の役人を捕え三〇〇余戸を焼払い印鑰(いんやく)をも奪い取った。印鑰は国印と正倉の鍵であり、いわば国務のシンボルであったから、これを奪うことは朝廷に対する明白な叛逆行為を意味した。加えて、当時武蔵新守百済貞連に退けられ、将門の元に身を寄せていた興世王の「一国を討つともいえどもその罪軽からず、同じくは坂東を併せ領せよ」との献言を入れ、関八州虜掠を企てて上野・下野国府を占領し、国司を追放した。今や争闘は反国衙闘争に転換したのである。

 その後、将門は八幡大菩薩の神託を受けて新皇を称し、除目を行って興世王を上総介に、兄の将頼を下野守に、多治経明を上野守、藤原玄茂を常陸介、文屋好立を安房守、平将文を相模守、同時為を下総守に任じた。武蔵守のみは任命されていないが、おそらく武蔵権守興世王への配慮から手をつけなかったのであろう。さらに下総石井郷に王城を建て、〓橋をもって京の山崎に、相馬郡大井津をもって京の大津に擬し、左右大臣・納言・文武百官を定めたと伝える。新王城の構想は律令体制を模倣した、いわば古代王朝政府の縮刷版にすぎず、将門自身も、なお旧主忠平を否定し去ることはできず、今回の経緯を説明し諒解を求めるありさまで、武力で関東を虜掠したが、その経営には革命的思想が乏しかった。

 強いて挙げれば、自分は「已に柏原五代の孫なり 縦ひ半国を領すとも、豈に運に非ずと訓はむや」と述べ、さらに「兵威を振つて天下を取る者 皆史書に見る所なり」と武人としての側面を強調する点に将門の特色を見出し得る。

 将門叛逆の報は、歳末の十二月二十九日に信濃から京に急報された。この頃瀬戸内海では藤原純友の乱が起り、都では両者が共謀して挙兵したのではないかとの風評が飛び、朝廷を大いに驚かせた。朝廷では正月の音曲を停止し、伊勢神宮や諸大寺に将門調伏を祈願させ、東海・東山・山陽道等に追捕使以下十五人を任命、征東大将軍として参議藤原忠文を東下させた。この時、諸大寺の焼いた芥子は七斛を越えたという。

 一方、将門は武蔵・相模等まで巡検して印鑰を領掌し、正月中旬には常陸を襲って貞盛を探した。貞盛は下野へ行って押領使藤原秀郷と同盟して四千の兵を率い、将門側一千の軍に対抗した。折しも貞盛追捕を断念して兵を帰し手薄となっていた将門軍は、優勢な秀郷・貞盛連合軍にあって敗れ、将門は天慶三年二月十四日、鏑矢に当り陣没した。将門の兄将頼、藤原玄茂は相模国で、興世王は常陸国、藤原玄明は常陸で斬られ、新王国建設の夢はあえなく挫折した。征討軍到着以前の事である。

 このように将門の乱は関東を舞台として起った前後六年間の争乱であったが、そのほとんどの期間は一族の争闘に終始し、最後の四ヵ月間だけが朝廷に対する反乱となった。これに対する朝廷の処置はきわめてあいまいで、乱が激化すると周章狼狽し、神社・諸大寺への争乱鎮定の祈願を唯一のこととし、わずかに律令兵制に基づき問密告使、追捕使、征東大将軍等を任命するのみで、これとても乱の鎮定には何の効果もなく、叛乱は秀郷・貞盛という在地土豪の手で鎮定されたのである。この後両者は戦功を賞されて秀郷は従四位下下野守、貞盛は従五位下に叙され、子孫が坂東武士として繁衍する基いをつくった。この乱からおよそ一〇〇年後、今度は房総を舞台にして将門の叔父良文の孫である平忠常が叛乱を起した。

将門の菩提所 岩井延命寺