平忠常の系譜

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寛和二年(九八六)、兄平貞盛や藤原秀郷と共に、平将門鎮定に功のあった平繁盛は、不運にも恩賞にもれたのを嘆き、延暦寺に国家安穏を祈って金泥大般若経一部六〇〇巻の書写奉納を発願した。この時武蔵にいた陸奥介平忠頼と弟の忠光は、伴類を率いこれを途中で奪い取ろうとした。繁盛は朝廷に訴え、朝廷は東海・東山道の国司に命じて忠頼の乱妨を停止させた。

 右は『続左丞抄』に掲げられている寛和三年正月廿四日付け太政官符の大意であるが、これによれば忠頼は武蔵に住み、伴類等の私兵を擁する武者だったことがわかる。当時の在地土豪=領主層が私兵を帯し武士化していたのは今までの叙述でも明らかであるが、忠頼の父良文も五~六〇〇人の郎党を有する在地領主だったことが『今昔物語』に見えている。良文は将門の叔父で、将門没後から下総国西部にかけて勢力を伸ばしたらしく、別名村岡五郎と呼ばれていたように大里郡村岡郷に本拠をもっていた。忠頼が陸奥介でありながら武蔵国に住んでいたのは、一名村岡次郎を称しているように、父良文の本拠を伝領していたためであろう。

 『尊卑分脈』でみるとこの忠頼の子が乱の主魁平忠常で、忠常の曾孫の常時・常兼の時に、上総・千葉の両氏に分立し、両総の豪族として発展したのである。忠常は下総国相馬郡の地(後の相馬御厨)を相伝しており、この地は久安二年(一一四六)八月十日の平(千葉)常胤の寄進状によれば「右、当郡(相馬郡)は是れ元と平良文の所領」とあるので、良文の開発地=根本領主の地と分り、良文より経明(忠頼の別名)―忠経(忠常)―経政(常将)―経長(常永)-経兼(常兼)-経重(常重)と歴代相伝していった。こうしてみると忠常は良文以来の所領を武蔵・下総の地に持ち、さらに武蔵押領使、上総介の地位が在地における彼の勢力を一層強固にしていった。