前述のように相馬郡をはじめ各地に私営田を有していた忠常は、上総介退任後も両総の地に割拠し、遂には国司に反抗し租賦を逃れ、官物を掠奪した。後に源頼信が石清水八幡宮に納めた告文によると、万寿四年(一〇二七)頃から猛威を振って坂東の受領を凌ぎ、翌長元元年上総国府を襲撃し、安房国衙をも侵略して国守惟忠を殺害したという。
六月、忠常叛乱の報が京に達すると、朝廷では直ちに追討を評議し、伊勢前守源頼信の声があったが、仔細あって検非違使平直方と中原成道を追討使に任じた。八月一日には忠常が弁疎のために派遣していた従者が検非違使に捕えられ、五日には直方等が従兵二〇〇余人を率いて京を出発、また官符を東海・東山・北陸三道に下し忠常追討を命じた。
しかし、追討使任命の蹉跌は乱の鎮定を遅延させる結果を招き、一年余を経ても直方等は忠常を征討できなかった。忠常とすれば、同族の直方に征討されるのを潔しとしなかっただろうし、中原成道にいたっては軍状すら報告せず解任された。忠常は益々勢いを増大させ、安房国衙を襲った。国守藤原光業は印鎰を捨てて上京し、代って平正輔を後任の守とした。しかし情勢は好転せず、長元三年九月、追討使平直方は召還され、代って源頼信(前年甲斐守に補任)が起用され、坂東の諸国司と共に忠常追討を命じた。
頼信は任国に下り、征討準備を整えて嫡子頼義と追討に出発しようとしていた時、忠常は二人の子と三人の郎党を伴い降ってきた。頼信はこれを許し忠常等を率いて上京の途中、忠常が美濃国野上で病死したため、首を斬って京に送った。頼信はいわば戦わずして忠常等を帰順させたが、乱が京に通報されてから鎮圧まで四年間を費した事件の深刻さに比べ、まことにあっけない幕切れであった。これには頼信の政治工作もあったというが、むしろこの戦乱のために房総三国が亡弊の極に違し、忠常等がもはや争闘を継続できなかったという経済的事情によるのではなかろうか。
『左経記』によると、上総国は損亡甚しく、もと二万二九八〇余町歩あった水田は、乱直後わずか一八町歩余に減少し、その荒廃は将門の乱の比ではなかったと述べている。この乱が越谷周辺に与えた政治的経済的影響には無視できぬものがあったと思われるが明らかでない。史料批判の上では問題ありとされているが、『岩尾系図』に越谷市域周辺の動きが出ているので参考までに紹介すると次の通りである。
長元三庚午九月二日、源頼信、前上総介平忠常追罰の詔を奉る。是より前、同元年夏忠常叛し、下総に起つ、国司藤原包昌戦いて利無く、忠常益々逆威を振う。是によって使平直方・中原成道これを討つ、然るに戦う毎に官軍利を失う。故に成道・直方、勅許有りて帰る。時に頼信任国甲斐に在り、長子左馬頭頼義をして宣旨を蒙る。頼義甲斐に到り、父に謁しこれを伝う。是において東国兵を催し、同十月十八日師を帥いて甲斐に登り、下総国に赴き、二十日武蔵国に到る。二十一日平忠頼忠常の弟、同忠将忠常の長子と河越において合戦しこれを破る。忠頼敗卒を聚め、岩付に陣し、忠将また中野に陣す、二十五日頼信岩付に向い、頼義中野に赴き、屡々相戦う。二十七日賊兵再び敗れ忠頼自殺し、忠将逃げて下総に帰る。頼信これを追討せんとす。然るに忠常近国の資給を掠取せんとす。故に軍見糧無く、剰え寒気常に異なり、士卒指を墜つ、是によって暫く其辺に陣し、甲斐・上野の運漕の至るを待つ(略)。
この『岩尾系図』は、明治十九年に内務省が『大日本国誌』編輯の際に採蒐した史料と伝え、大森金五郎氏によれば「後世の作出と見え、仮是を調査して編成せる痕跡あり、また実録諸書と符合せず、史料として殆んど価値なきが如し」と、かなり手厳しい評価をしている。たしかに当時の下総国司を藤原包昌(実際は藤原為頼)としていること、忠常の弟に忠頼を充てていること、甲斐に留まっていた頼信父子が下総攻めに来たこと等、種々難点を指摘しうるが、当時、在地豪族層の勢力角逐の場であった埼葛地域の一面を伝えているようにも思われるので、煩を厭わず掲げてみた。
いずれにせよ忠常の乱平定を契機として源氏の勢威は関東の地に知られることとなり、これが後の頼義・義家父子の前九年・後三年の両役を通じた源氏棟梁化の端緒を作ったのである。