勅旨田の設置

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古代律令体制の基盤となっていた班田収授法は、農村受給人口の増加による班給地の不足や、大社寺・有力貴族等の権門勢家による耕地の占有・兼併によってまもなくその矛盾を露呈し、八世紀前半には、後の大土地私有の契機となった三世一身法(七二三)や、墾田永世私財法(七四三)の制定によって崩壊の危機に頻していた。これ以後、有力貴族や大社寺に在地豪族まで加わって空閑地や荒廃地の開発と、墾田の買得が進められ、その過程で農民達が入会権をもっていた山川藪沢を独占し、また用水権を侵害して農民生活を圧迫して、耕地の私有化荘園化を促進していった。この結果、荘園は中央官僚や大社寺、在地土豪層の手に集中されてしまった。しかし、彼等はたまたま官位によって納税免除の特権をもっていたので、朝廷では耕地開発による財政収入の増加を期待できず、財政破綻の危機に直面してきた。

 このため朝廷は、九世紀初頭より自ら土地公有制を否定して、各地に皇室私領でなる勅旨田を設定し、巨大な荘園領主となっていった。勅旨田とは、勅旨によって空閑地・荒廃地を開墾し、皇室御領としたもので、開田に当っては在地豪族が現地の監督に任命され、そのうえ、中央政府が班田農民に有していた収取機構を利用し、公水が用いられた。開発料は諸国の正税や乗稲が充当され、労働力には農民の雑徭や浪人が徴発されていった。こうして各国に勅旨田が開かれたが、天長五年(八二八)から仁和二年(八八六)に至る五八年間に、史上に見える勅旨田の設置状況は第16表のとおりで設置範囲は摂津等一二ヵ国、二七件、面積は五一六八町に達し、そのうち後院勅旨田は一五六一町であった。

第16表 勅旨田設置状況一覧(天長5年~仁和2年)
年代 国名 開田地 面積
天長5 伊勢 空閑地 100町
天長6・7・承和1・8 武蔵 空閑地,荒廃田 1,140〃
天長7・8・9・承和5 摂津 田地,荒田,野地,乗田 1,152〃
天長7・8 下野 田地,空閑地 800〃5反
天長7 備前 空閑地 50〃
天長8 下総 空閑地 700〃
天長9・承和2 美濃 空閑地,荒廃田 35〃1反
承和3 河内 荒廃田 13〃
承和3 出雲 古荒地 40〃
承和3 肥前 空閑地 690〃
承和4・5・12 近江 荒廃田 291〃
仁和2 丹後 熟田,荒田 156〃
合計 12ヵ国 5,167町6反

 武蔵国には摂津と並ぶ一一四〇町歩の勅旨田が設置されており、下野・下総は七~八〇〇町歩設置され、一般に辺境地域に広く置かれていたのが注目される。

 武蔵における勅旨田の設置状況をみると、天長六年(八二九)西院領として空閑地二九〇町歩、翌年には同じく二二〇町歩が開発され、この開発には正税一万束が開発料に充てられている。続いて四年後の承和元年(八三四)には幡羅郡(現大里郡の北部)の荒廃田一二三町歩が冷泉院領に充てられ、これは後院領としては最古と伝える。同八年二月には五〇七町歩が嵯峨院領として開発された。『埼玉県史』は開発地を西院領は入間地方、冷泉院領は大里郡妻沼辺に比定しているが明かでない。こうして武蔵の勅旨田は嵯峨・淳和・仁明の三天皇の皇室領として開発されたが、この後も皇室領は設置され、たとえば埼玉郡北部から中部にかけての広大な太田庄は八条院の女院御領であった。下総国の勅旨田は天長八年に空閑地七〇〇余町歩が開かれたが、その位置は不明である。なお下河辺庄も八条院領であった。この勅旨田も開発に当っては在地土豪の力を借りたため彼等を利することともなり。延喜二年(九〇二)には百姓の産業の便を奪うという理由で開発が禁止され、土豪勢力の温床は次の勅旨牧に移っていった。