勅旨牧の設置

181~183 / 1301ページ

武蔵国は土地が平坦で良質な牧草の生育に適していたので、各地に官牧・勅旨牧(御牧)、私牧が発達し、良馬を産した。このうち官牧・御牧は、皇室や朝廷が使用する料馬を飼養し、武蔵・甲斐・信濃・上野の四ヵ国に置かれた。官牧は兵部省所管、御牧は左右馬寮が所管した。

 武蔵の牧は、官牧が檜前(ひのくま)馬牧と神崎牛牧の二つで、檜前馬牧は防人檜前舎人石前の出身地である那珂郡駒衣村(児玉郡美里村)、神崎牛牧は東京都内の牛込の地と考えられている。御牧は『延喜式』によると石川牧・由比牧・小川牧・立野牧の四ヵ所をいい、『拾芥抄』では四牧と共に秩父牧を挙げて五牧としている。牧の位置は石川牧は久良岐郡本牧(横浜市)の地、由比牧と小川牧は多摩郡内に比定され、立野牧は都筑郡(神奈川県)立野郷とする説と、足立郡大間木(浦和市)とする説がある。大間木とすると越谷にもほど近く関心が引かれるが、この説の根拠は大間木が古くは「大牧」と牧場に類縁の表記がなされ、隣村三室村の古社氷川女体神社には「天暦古牧」と記した木札が残っていること、また同地域内には牧馬と関係のある「駒形」という地名や「駒形社」という小社も祀られていること、地形も小丘や台地が連続して牧場に相応しい地勢を示し、近村の戸塚村(川口市)には立野の地名が残っていること等である。秩父牧は石田牧(長瀞町)と阿久原牧(神泉村)から成っていた。

浦和市駒形神社

 武蔵の御牧が勅旨牧となったのは、延喜九年(九〇九)の立野牧が最初で、次いで承平元年(九三一)小野牧、同五年秩父牧が勅旨牧となった。牧には管理者として牧監(ぼくげん)が置かれたが、武蔵のみは別当と称した。毎年八月に四才以上の良馬五〇匹を選んで貢進し、宮中の主要行事である駒索の儀式が行われた。この時貢馬は天覧に供され、後東宮や公卿に一部賜与され、残りは左右馬寮に下された。秩父牧は宇多院御料牧として設定されたらしく、『西宮記』によると延喜二年の秩父牧別当は、法皇の寵臣で、後に法皇の推挙で武蔵守となり源仕の襲撃をうけた高向利春であった。勅旨牧となってからは藤原惟条(これのぶ)が別当となり、小野牧の方は小野諸興が任ぜられていた。諸興は後に武蔵権介となり群盗追捕の押領使となっている。これらの諸牧は古代末期になり朝廷の支配体制が弱まると、他の荘園同様有力土豪に押領され私領化して牧馬は土豪の手中に帰した。牧馬は土豪の領主化に寄与すると共に商業圏を通じて他の土豪に売却され、彼等の武士化を促進する有力要因となった。