荘園と御厨

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武蔵野が遠く開け、地味膏腴の地が広く展開していた武総地方も、河川の乱流等によっていまだ開墾の手の及ばない空閑地や荒廃地が多数広がっていた。八世紀後半以降、そうした空閑地・荒廃地を対象に中央の貴顕や大社寺、有力土豪層によって積極的な墾田開発が進められ、いわゆる自墾地系荘園が成立してくる。しかし、権門や大社寺は自己の政治的地位を利用して、租を納めない不輸権や国司の干渉を排除する不入権等の特権を得て納税を怠り、荘園を完全に私領化してしまった。このため、財源確保に窮した朝廷は国司を督励して、在地土豪のもっている耕地から徴税を貫徹しようとした。土豪層は国司の誅求から逃れるために、藤原氏のような有力貴族や大社寺に耕地を名目的に寄進して本所領家と仰ぎ、自らは荘官として土地の所有権を保有する寄進地系荘園が簇生してきた。そして時代が降ると、土豪層は本所領家の支配を排除して独立の私営田領主に成長し、武士化したのである。

 武蔵国に置かれた荘園の早い例は、宝亀十一年(七八〇)の「西大寺資財流記帳」に入間郡榛原荘、「貞観寺田地目録帳」に右大臣藤原良相が貞観九年(八六七)に貞観寺に施入した高麗郡山本庄、多摩郡弓削庄、入間郡広瀬庄の三ヵ所の名が見え、八世紀後半から九世紀にかけて大社寺の荘園が置かれていたことがわかる。九世紀前半には前述のように勅旨田の設置がみられるが、延喜二年(九〇二)の禁止後は、権門の手によって荘園化され、平安末期には皇室御領としての太田庄、下河辺庄、新日吉社領の河肥庄や、その他畠山庄、長井庄等が置かれていた。これらの荘園の実際的管理者には、有力土豪である下河辺氏・河越氏・畠山氏・長井斎藤氏等が荘司に任命されており、古代末期には荘園を横領して領主化の基礎としていった。越谷近辺には新方庄・崎西庄が置かれていたと伝えるが、その設置時期は不明である。

 荘園と共にその一種として、伊勢大神宮領に寄進された御厨(みくりや)が置かれ、大神宮の供物や臨時祭等の費用を貢納していった。越谷周辺には、大治五年(一一三〇)千葉経繁が寄進した相馬御厨、寿永三年(一一八四)源頼朝が寄進した大河土御厨、葛西氏が寄進した葛西御厨の三つの御厨があった。