在地土豪の武士化

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関東地方は、先進地といわれた畿内や中国地方に比べて農村分化が遅れ、古代的家父長制に基づく生産構造を遅くまで残し、在地豪族層の成立が容易なところであった。彼等は、一般にその出自から

 (一) 国造や郡司層の系譜を引く在地名族層

 (二) 都からの下向貴族の後裔

に大別され、また在地に勢力を張った時点を基に(一)を旧豪族、(二)を新豪族と呼ぶことができる、両者の間には、将門の乱の起った十世紀半ば頃を転機に、旧豪族から新豪族への勢力交替が見られた。将門の乱に登場してきた足立郡司武蔵武芝などは旧豪族の代表的人物であり、上総介高望王の後裔として武総地方に土着し豪族化した秩父氏や千葉氏などは、新豪族の代表といえる。ところがこの旧豪族と新豪族とでは、武士化していく過程が異なっているのである。

 旧豪族層はおおむね国造の出であるので、大化前代以来の族長としての伝統的権威をもって農民を支配していたが、大化改新後は朝廷が地方支配を貫徹するためにその力を利用し、郡司に任命して律令機構に組み入れていった。その後彼等は、従来の伝統的権威と郡司としての官僚的権威で傘下農民と保護・被保護の関係を強くし、郡司職分田や新たな墾田地と父祖以来の広大な耕地を耕営して領主化したのである。

 例えば武蔵武芝の場合を見ると、武蔵国造である丈部不破麻呂以来歴代開発してきた広大な私営田を、「所々の舎宅、縁辺の民家」に居住していた多数の農民を駆使して耕営し、莫大な私財を蓄積していた。そのため権守興世主や介源経基の強奪の対象となり、紛擾を起したのは前に見たとおりである。加えて武芝は武蔵唯一の名神大社氷川神社を奉斎し、私兵をも蓄えていた文字通り祭政一致の古代的豪族であった。

 これらの旧豪族層は時には律令機構の末端官僚としての性格を示すかと思えば、ある時には農民のリーダーとして国司に反抗するという矛盾した行動をみせるが、窮極的には農民側に立つのが常であった。というのは郡司の経済的基盤が農民との依存関係で成立し、農民の貧困は郡司の経済的基盤の崩壊を意味したからに外ならない。

 ところが農村構造の分化によって農民の地位が上昇し、独立自営化の道を歩むようになると、郡司は従来の伝統的古代的支配方式では農民を把握できなくなり、律令官僚であり、また族長的私営田領主であるという互いに矛盾する両者を克服し、さらに農民を強固に把握する具体的方法として、新しい支配方式=武士化を進めていくのである。ところが、十世紀前半頃より、新豪族の抬頭によって圧迫され、その地位を譲らねばなくなる。

 新豪族である下向貴族の後裔が、土着化ないし領主化を進めていく場合には、源義賢が秩父重隆の女婿となったり、秩父将常が武芝の女と婚姻したように、在地に伝統的勢力を有する有力豪族層と積極的に婚姻関係を結び、在来の同族的結合に妻方の姻縁結合や地縁的結合をプラスして、次第にその勢力を拡大する方法をとっていった。

武芝の系譜を伝える「西角井家系図」

 さらには雑任国司、あるいは在庁官人として国衙機構に食いこみ、時には追捕使、押領使などに任命され、それらによって富力と武的権威を高め、その権力を乱用して私有地の拡大を図り、在地農民を支配していった。たとえば検田権を濫用して耕地の境界を有利に画定する四至の立券、承認を行なって在地土豪や独立自由農民層に恩顧を与え、私的隷属関係を強めたり、さらには司法警察権や勧農権を楯にとって荒廃地を囲いこみ私有化を強めていった。

 こうして獲得された私有地の広さは一郡から数郡にまたがり、千葉氏や上総氏のような豪族的領主層も出現してきた。

 ところが在地領主層の私営田経営は、必然的に国司の徴税権行使と衝突し、国役対捍とか反国衙の動きを引き起こし、国司と鋭く対立した。彼等は国司や他の強大な勢力から所領を守るために、千葉氏が相馬御厨を伊勢大神宮領に寄進し在地領主権を確保したように、所領を名目的に藤原氏や有力社寺の荘園に寄進し、自らは荘官となって実際的支配権を保有していた。

 さらには、所領支配の貫徹のためその保全と拡大を図って、あるいは国司と、あるいは周辺豪族との抗争を通じて武力を蓄え、なお国司等と階級的に相対立する在地土豪や有力農民層を把握し、その結合を強化するために領主化を強化し、それが具体的には武士化となって表われたのである。

 在地領主の武士化が、平安中期以降の地方政治の乱れ、治安の悪化の中で、国衙権力を頼ることなく自力で所領確保、強盗防禦を目的として私営田に対する警察権を確立していった段階ではまだ消極的武装であり、やがて所領保全の要求から一歩進んで、武力を背景とする所領拡大、ないし村落支配の鍵である小名主層把握という段階に至ると政治的意味をもつことになる。

 領主層の庇護下に入った小名主や独立農民は、農閑期に武術の修錬に努め、一朝有事の際には武器を帯して赴くも十世紀頃にはまだ兵農一致で、戦闘が終ればそれぞれの土地に帰って農耕に従事していた。

 将門が敗れた時の兵力は、「将門の恒例の兵衆八千余人が未だ集らず、ただ、率いるところの兵衆四百余人」だったというし、敗色が見えると一目散に逃げ去るというように、情勢に応じて兵力が容易に変化する点に、この期の武力組織の特徴を見出すことができる。この段階では武士化したとはいえず、武士化への過渡的段階で、武士化には兵農分離と、党もしくは武士団として組織統合される必要があった。

 その統合への要求は、はじめ所領保全という経済的要求が契機となっていたが、やがて武人としての誇りに転じた。

 通常その誇りは、①在地農民層と身分的に異なり、②武勇の者であって名を重んじ、③それらを支える経済力を併せもつという三点に基づいていた。

 さらに在地領主の武士化を促す具体的条件には、①武器の入手、②官牧の占有による騎馬の利用、③郎等、所従などの従者私兵を率いることの三点が挙げられるが、関東地方にはこれらの諸条件に対する歴史的、地理的条件が備わっていた。以下古代末期の越谷周辺を窺うために武蔵国の代表的武士団の動きを見てみよう。