秩父氏

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武蔵の代表的武士団である秩父氏は桓武平氏の後裔で、坂東地方に土着し豪族化した坂東八平氏の一であり、埼玉県秩父・大里郡を中心とし武蔵各郡および下総・相模の国々にも分布していた。同氏の族には、鎌倉政権樹立に活躍した畠山・小山田・稲毛・榛谷・河越・高山・江戸の諸武士団がある。

 秩父氏は、平良文の子村岡次郎忠頼より出て、その子将常が武蔵権守となり、秩父郡中村郷(現秩父市)に本居を定め秩父氏を称したことに発する。将常の子武基は秩父牧の別当として近隣に武威を張り、その子武綱は前九年の役に頼義麾下(きか)の豪勇の士として従軍し、「武功第一也」と称讃されている。およそ祖父将常の土着から武基の代にかけ秩父郡下を中心に領主権を強固にし、武士化したのであろう。その子重綱の時、出羽権守、武蔵国留守所総検校職となり国衙の在庁官人になった。

 武蔵国総検校職の職掌は、『吾妻鏡』の貞永元年(一二三二)十二月二十三日条によると、国検の時の事書、国中の文書の加判等四ヵ条が挙げられ、武蔵支配の上にきわめて重要な意味をもつとともに、秩父氏一族の領主化と深いかかわりあいをもっていた。これは重綱以後秩父惣領家の畠山氏が継承し、重忠が讒にあって二俣川で討死した後は、次男の流れである河越氏の手に移っていった。

 畠山氏は、秩父権守重綱の嫡孫重能で祖父以来の総検校職を世襲して国務を沙汰し、畠山庄司(荘官)となって男衾郡の畠山(現大里郡川本村本畠)に移り氏を称した。重能は、はじめ源義朝に従っていたが、平治の乱で武蔵国が平家知行国となると平家に仕え、その子重忠も父に従い平宗盛に仕えた。治承四年(一一八〇)八月、頼朝が、伊豆に挙兵した時は大庭景親の募に応じ、頼朝方の三浦義澄を衣笠城に攻めたが、十月頼朝が武蔵に入国するや帰伏し、以後源家の柱石として鎌倉政権確立に多大の貢献をした。

 畠山氏等が平氏の出でありながら、当初源義朝に仕え、のち平宗盛に、再び源頼朝にと再三臣従を変転していったのは、畠山氏等の節操の弱さを示すものでなく、当時の在地豪族の領主権が国衙権力に対してきわめて弱体であり、領主権確保のためにより強大な力に頼らざるを得なかった歴史的事情によるものであった。それ故に下総より武蔵入りした頼朝が武蔵武士の掌握のために国衙機構を守りつつ、いち早く中小武士団の首長の本知行職を安堵したのであった。

畠山重忠の像(比企郡嵐山町)

 次に平安末期における秩父氏一統の在地における生活ぶりの一端を、『発心集』から「秩父の冠者」といわれた河越氏の場合を、河越(河肥とも書く)庄を舞台に窺ってみよう。河越庄は入間川流域の沃野に開け、はじめ後白河上皇の御領であったが、永暦元年(一一六〇)、上皇によって京都の新日吉社の所領として寄進された地である。本庄は、重綱の次男重隆が荘官として領有し河越氏を称したもので、少なくとも治承年間直後は重頼の請所となっていた。

 この荘園は低地に開けていたため、たびたび入間川の氾濫にあい、秩父の冠者は入間川のほとりに堤防を築き土居をつくり、その中で田畠を耕営し在家を形成していた。ところが五月雨頃に大水が出て堤防がきれ、二、三町歩程は全く水没し一面海のようになり、冠者の妻子をはじめ一家一七人の者が溺死して、多数の「在家」、「朝夕呼びかえし奴」が一夜で滅び、残ったのは郎等一人であったという。

 このことから十二世紀頃の河越庄の状態やその領主である河越氏が、傘下に多数の在家や一種の下人である「朝夕呼びかえし奴」を従えていたこと、従者の中に、私的武士団の成立を示す郎等(ろうとう)のいたことがわかる。郎等も在家同様土居内に耕地を給されていた農民層だったらしく、このような状況が当時の根本領主と呼ばれた在地領主層の一般的な姿であった。

 また、しばしば水難の災を蒙る地に耕地を有していたのは、反面この地が水災で肥沃の地と化し、文字通り河肥えの土地であったためだろうが、また一面、当時の武蔵国が水覆の地にまで開墾のおよんでいたことをも示している。