武蔵七党

189~194 / 1301ページ

武蔵七党は秩父一統と共に、埼玉県内で大きな勢力を振っていた武士団であり、血縁集団を紐帯とする党的結合を中核とした比較的中小規模の武士団で、各地に多数割拠していた。これは一般的に『武蔵七党系図』に従って横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹・西の諸党をさすといわれるが、一説には野与の代わりに私市を入れたり、あるいは村山・西の代わりに綴・私市を入れる場合等もあって一定せず、適当に七つの武士団を組み合わせて七党と称していたにすぎない。

 党の存在形態は、時と所により区々だが、武蔵七党の場合横山党が二〇数名の同族的在地領主層の軍事的連合によって構成されていた武士団であった例に典型的に示されているように、相互に独立性を保持していた同族結合であった。

 党結合の基本となっている同族とは、共通の祖先から分脈した血縁的分家のように思われるが、事実はそうでない。各党の祖先が国郡司や在庁官人を歴任し、あるいは荘園や牧を開発していった時点と余り隔たらぬ時であれば、一族の血縁性は保たれただろうが、時日の経過とともに異族が党構成に参加し複雑化していった。

 小野姓の横山党に藤姓の糟屋氏、別府氏がいたり、有道姓の児玉党に藤原姓の小代氏(しょうだいし)がいたりするのはその例証である。異族が新たに参加した場合も隷属的加入でなく対等の武士団として参加したので、その上下関係は一層不明瞭となり、各支族の独立性はそのまま温存されていった。

 武蔵七党の地理的分布は前頁の分布図や第17表で示したように、たとえば児玉党が児玉・秩父・大里と上野国南部とに分布し、それから一応の分布領域を押えることができる。この際きわめて好都合なのは、支族が、未墾地を開発して占有権を公示するため、名田、名主の名をとって呼んだように、私有地名をもって自己の苗字としたことである。これによって党の勢力分布も一層明瞭となる。

武蔵七党分布図

 各党は同族結合の確認と強化のために共通の祖神を祭って党結合の精神的中心とした。児玉党は有氏社を、丹党は丹生社を、野与党や私市党は久伊豆社を奉斎した。また、いずれも下向貴族の後裔と称しているが、典拠資料のほとんどは系図であるため問題が多く、また当時の在地土豪が一般的に抱いていた貴族制への憧憬から、中央貴族と擬制同族化し、その後裔と称した場合もあって、その系譜を一層複雑化している。この七党の当時の姿を横山党を例にとってみると次のとおりであった。

 横山党は小野氏系図や武蔵七党系図によると参議小野篁の後裔小野義隆に始まるという。義隆は十世紀末葉、武蔵権介に任ぜられて当国に下向し、任期満了後もそのまま横山庄(都下八王子周辺)に土着し横山大夫、野大夫とも称し、いわゆる典型的な下向貴族のタイプであった。その子資孝は長保六年(一〇〇四)七月別当職に補され小野牧を管理して野三別当ともいわれた。横山党は、父義隆の代から領主化=武士化しており、資隆の代に騎馬の入手で機動力を高め武士化を一層促進していったらしい。その子経兼は康平五年(一〇六二)源頼義の奥州合戦に従軍し先陣を承って安部貞任を討取る戦功を挙げた。後に源家譜代の家人となるが、源氏との結びつきはこの時から生じたに違いない。『長秋記』の天永四年(一一一三)三月四日条によると、横山党が内記太郎を殺害したため朝廷では追罰の宣旨を下し、常陸・相模・上野・上総・下総など五ヵ国の国司に追討を命じている。この時、党の首領となったのは、経兼の息横山野大夫隆兼で、隆兼は六条判官源為義の代官として為義の命により同族愛甲内記平大夫を討ち殺したのである。このため朝廷の追討にあい、近江国伊加磨菰先生守末が大将軍として一七ヵ条の衾(ふすま)宣旨をうけ、東海道一五ヵ国の武士を率いて隆兼等を攻めた。ところが隆兼等は容易に屈服せず三ヵ年間に宣旨御使を一七回も追い帰している。そこで朝廷ではあらためて秩父権守重綱、三浦平太郎為次、鎌倉権五郎景正等関東武士に命じて攻めさせ、ついに京都に参向させたが、為義のはからいで何の咎も無く、おまけに為義から白弓袋と愛甲荘とを与えられたという。これは横山党が為義以来源家譜代の家人であったためである。経兼の子経隆は久安四年(一ー四八)頼朝が鎌倉で誕生した時鳴弦役を勤めており、その孫時兼も頼家が養和二年(一一八二)誕生の時、御守刀奉行を務めているなど、父子共に源家嫡子に近侍したのは譜代家人中でもことに信頼のあつかった証拠であろう。

 『長秋記』の記事によると天永四年の事件当時、横山党は二〇余人から構成されていたが、その人数は内記太郎殺害に従事した総人数を示すのでなく、横山党を構成していた領主級武士の人数を示すものであった。こうした軍事連合としての武力を有していたから東海道一五ヵ国から選任された追討使を一七度も撃退できたのである。横山党の支族は七〇家を数え、その武士団構成の強大さを窺うことができる。こうした血縁を紐帯とする等位結合の武士団構成は、単に横山党に限らず、規模の大小は認められるにしても党と呼ばれるものの一般的な姿であった。