野与党の支族大相模氏

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古代末の越谷周辺で武威を振った武士団は野与党である。野与党は忠常の乱の首魁であった平忠常の曾孫基永が野与庄の庄司となり、野与氏を名乗ったのに始まる。忠常は前に述べたように上総介、武蔵押領使を務め、武総地方に勢力を張っていた関係上、子孫はこの地に繁衍し、下総西部は千葉氏、その西部は野与党の勢力下にあった。庄園のあった野与の地が何処かは不明だが、埼玉郡白岡に「野与道」と呼ばれる古道があったということから、そこを本拠と考える説もある。野与党の勢力範囲は、旧利根川と綾瀬川に囲まれた元荒川沿いの低平地で、埼玉郡を中心に足立郡・比企郡や下総、上野地方にまで及んでいた。その状況は第17表のとおりで、二〇族以上にも分れていた。

 第17表 武蔵七党とその一族
党名 主な分布地 一族名
野与 南・北埼玉郡を中心に北足立、比企両郡から上野総に分布 野与、北鬼窪、南鬼窪、白岡、渋江、栢間、道智、多賀谷、西脇、箕勾、大相模、利生、柏崎、須久毛、八条、金重、野崎、高柳、戸田、笠原、大蔵
村山 東京都北多摩郡を中心に入間郡に分布 村山、大井、宮寺、金子、山口、須黒、横山、久米、仙波、広屋、荒波多、難波田
横山 東京都南多摩郡を中心に、大里、比企、南・北埼玉郡に分布 横山、小野、遠田、井田、毛利田、宇都幾、皆河、武佐、目黒、八野巻、海老名、本間、国府、三間、荻野、別府、山口、愛甲、水子、古庄、小沢、中村、矢古宇、大屋、成田、中条、刈田、小田治、箱田、日谷、河上、玉井、金、大中、桑原、糟屋、由木、千与宇、帷、樫生、吉野、古市、言大、塩部、大串、倉賀野、川口、藍原、野部、山崎、成瀬、小股、藤田、続、五那、小山、小倉、菅生、大貫、小補摩、横田、平子、石川、吉沢、本目、平山、的、田名、小沢、伊平
猪俣 児玉郡猪俣を中心に大里、比企、上野、下野に分布 猪俣、男衾、無動寺、友庄、井沼、横瀬、滝瀬、尾園、木部、小野、河勾、甘糟、古郡、三輪寺、荏原、荻原、太田、人見、岡部、内嶋、鬼極、藤田、〓土、御前田、飯塚、続、今泉、山崎、桜沢、蓮沼、栃窪、湯本、金尾
秩父、児玉、入間の諸郡に分布 桑名、上中村、下中村、古郡、大河原、塩屋、岡田、長田、坂田、大窪、栗毛、薄、横脛、弥那、織原、横瀬、秩父、勅旨河原、新里、安保、滝瀬、長浜、青木、榛沢、小島、志木、柳原、高麗、加治、桐原、肥塚、判乃、白鳥、岩田、韮山、山田、竹浦、小原町、黒谷、堀口、南荒居、田長、藤矢渕、野上、井戸、葉栗
児玉 児玉、秩父、大里の諸郡から上野に分布 児玉、秩父、新屋、片山、豊島、吉島、與島、吉田、富野、富田、大類、大河内、小播、稲島、高山、柏崎、島方、大浜、臼倉、矢島、浦上、大塚、岩田、多子、島名、保尾、牧野、大渕、鳴瀬、黒岩、岡崎、浅羽、小見野、長岡、粟生田、大河原、塩屋、奥塚、本庄、庄、金沢、蛭川、阿佐美、荏戸内、栗栖、小中山、五川、荏久下、倉賀野、高尾、奥平、名倉、入西、夏下、小代、越生、善泉、四方田、小河原、若水、浅羽
西 東京都南・北多摩郡に分布 西、長沼、上田、小川、稲毛、平山、川口、由木、西宮、由井、中野、田村、立河、狛江、信乃、高橋、清恒、平目、田口、二宮
私市 北埼玉、大里両郡に分布 成木、久下、市田、楊井、草原、私市、太田、小沢、河原

 越谷に居住した大相模氏はこの野与党の一支族で、基永の孫経光が箕勾(現岩槻市)に住して箕勾二郎大夫を号し、その長子能元や孫の為継が代々箕勾氏を名乗り、箕勾南部の柏崎に住して柏崎二郎とも称した。経光の弟能高は大相模郷を開発して箕勾より移住し、大相模二郎と称して大相模氏の祖となった。能高の移住した時期は、系図によると能高が長元四年(一〇三一)に死去した忠常の七世の孫に当るとされているから十二世紀頃と推定される。

 大相模郷は西方・東方・見田方を中心とする元荒川南部の自然堤防上に開けた地域で、見田方遺跡や板碑の分布によっても、市域ではもっとも早く開発された所であることが知られる。大相模郷の地名は、天平勝宝二年(七五〇)当地に開かれたと伝える大聖寺の「不動尊瑞像記」に、「一宇を創め自ら供養し、以来郷を大相模と称し山号を真大山、寺名を不動坊と云う」とあって、かなり古かったと伝えているが、承平年間成立の『倭名類聚抄』には記載がない。

 能高とその子能忠が本拠を構えた館跡は、現在の中村千枝氏宅と伝えられ、同家の祖は家系によると「小相模次郎能高」となっている。約六〇〇〇坪の宅地には裏手に高さ三尺、広さ四坪程の塚があったが、今は崩されて跡のみとなっている。以前は応永二年(一三九五)銘の青石塔婆等五基があったが、現在は墓地に移され、屋敷地内には最近まで構堀(かまえぼり)や土塁跡が残っていたが、今はわずかに往時の姿を止めているにすぎない。

(野与党の系図)