右の大相模氏が活躍していた頃、市域に勢力を張っていた武士として古志賀谷(越谷)氏の名が「千葉氏大系図」に見える。同系図を見ると、大相模能高の兄、箕輪能元の孫為長が古志賀谷二郎を名乗り、以下為重、その子秋近・信秋・行勝の三兄弟と続いている。古志賀谷氏については、このほか『下総旧事考』所載の「千葉氏世紀」に、平忠常の五世の孫行長が十郎竜大夫と号し、大蔵・箕勾・渋江・大畑・横・柏崎・古志賀谷・神倉・須久毛・鬼窪・栢間・黒浜等の祖となったと伝えている。「千葉氏世紀」は清宮秀堅の著であるから幕末の成立であり、内容から推して「千葉氏大系図」等を基にして作製したと思われる。
「千葉氏大系図」は、巻末に「按、此の系図は寛永年中千葉介重胤所撰なり、其の後、書継あり、此は後裔浅草第六天神の社司鏑木氏の手沢と見えたり、云々」の追記があり、近世初頭の成立と伝え、また『下総旧事考』の解説には「これは千葉諸系図を集大成したものと見るべきで、支族の姓を掲げただけでも一八五家に及び、千葉氏関係の事蹟は殆ど網羅され、其の点に於て甚だ便利を与へてくれる。しかし、史料としての信憑価値には未だ研究の余地があるようだ」としている。系図としての史料的限界は「野与党系図」も同様であるが、七党系図はおよそ鎌倉末までには成立したろうといわれているから、その所説に従えば「野与党系図」の方に信がおけることになる。
「千葉大系図」によると、古志賀谷氏の略系は次のとおりである。
野与党系図の大蔵経長(野与元永、或は近永の子)、その子経光(箕勾)・行長(大蔵)と、大系図の千葉常長、その子常光・行長と一致していて、大系図作製時に、野与党系図の経長以下の記述を、音通の千葉常長に合わせたふしが窺える。なお、大系図では能高は大畑氏を名乗ったとされている。
いずれにせよ両系図から、元荒川沿岸の越谷・岩槻地域に渋江氏か箕輪氏を惣領とする野与党の一支党が蟠居していたと思われ、大相模と共に古志賀谷(越谷)が早くから開けていたことを示している。