関東地方においては前述のように、十世紀以降十二世紀にかけて、多数の在地領主層の成立と中小級武士団の形成がみられた。彼等は所領の領主権確保と拡大のために、中央貴族や大社寺と経済的契機に基づく保護・被保護の関係を結んだが、前九年・後三年両役以後、坂東武士と源家嫡流との間に結ばれた関係は、武的契機に基づく人格的主従関係と、それを基調とした統一体としての軍事的階層を有する関係であった。このような結合関係の成立は、武家の棟梁の成立と軌を一にし、頼朝以後は封建的主従関係として再編成されるに至る。
清和源氏の勢力が関東地方に及んでくるのは、十一世紀初頭、平忠常の乱を源頼信が平定して以後のことである。一般的には平氏が西国に勢威を張ったのに対し、源氏は東国を地盤として武威を振ったと理解されている。たしかに東国は源頼朝が武家政権を確立した基盤となり、また伝統的支配を続けた地でもあった。しかし武士の興起をみる十世紀段階では、東国における平氏勢力の滲透は源氏の比ではなく、坂東八平氏の繁衍状況をみても明らかである。
ところで、武総地方は将門の乱、忠常の乱という共に平氏一族によって起された二大内乱によって、在地農民は想像以上の打撃を蒙った。しかし古代末期の武総地方では、この二大内乱に留らず大小さまざまの紛争が絶えなかったので、在地豪族の間には強大な勢力のもとに自己の生命と所領の保全を図りたいという強烈な願望が伏在していた。まして中小在地領主層が蟠居し、互いに抗争にあけくれていたこの時期には、各地の在地領主層は血縁を基本として党的団結をし、中小武士団を形成しつつ、一方では強力な武家棟梁のもとに統一する動きを示していた。このため忠常の乱・前九年の役を通じて直接体験した頼信・頼義父子の威風を慕い、坂東武者が競ってその傘下に集まり主従の義を結ぶに至ったのはごく自然のことであった。頼義に関し『陸奥話記』は「性沈毅、武略多く、最も将帥の器と為す」とし「勇決群を抜き、才気世に被う」た勇将と讃え、このため坂東武士の中には服属を希望する者が多かったという。後に頼義が相模守となって東国に来た時には「威風大いに行われ、拒捍の類皆奴僕の如し、しかして士を愛し施すを好む、会坂(おうさか)以東の弓馬の士、大半門客と為」ったと伝えている。周知のように『陸奥話記』は戦記物語であるから、その記述をそのまま承認することはできないが、国衙に対し無力な在地領主層が、彼等を保護する強大な勢力を如何に希求していたかをよく示している。しかし源氏の支配が確固となるのは次の義家以降、なかでも義朝の時代を待たねばならなかった。
義家は父頼義と共に前九年の役に従って武威を示し、後三年の役では麾下の将士と生死を共にし、また飢寒を同じくして勇戦奮闘清原氏を討ち破った。しかし朝廷はこの乱に対し終始消極的態度を示し、追討のことも恩賞についても何らの考慮を払わなかったので、義家は私兵を率いて清原氏鎮圧に当り、部下の恩賞に対しては私財をなげうって行ったので、義家と麾下将士の間の主従の情=人格的主従関係は一層強固なものとなり、また戦闘には強力な統率権を要請されたため自然に軍事的階層が構成されてきた。しかしこの時期には鎌倉期の将軍と御家人との関係にみられた御恩と奉公の交換による双務契約的性格がまだ認められなかった。後三年の役の時、義家の主戦力となったのは義家の私的徴募に応じた坂東武士や相模の武士団であったが、武蔵からも多数の武士が参加し、その反映として武蔵各地の神社には義家の戦勝祈願の伝説が多数残されている。義家が私的徴募をもって坂東武士を編成したといっても、彼の棟梁的地位は全く個人的力量に負うたものでなく、「出羽守」「鎮守府将軍」という中央政府から任命された将帥としての権限にもとづいていたのである。
義朝は若年の頃鎌倉に居館を定めて坂東に勢力を伸し、「貴種」の権威をふりかざして相馬御厨、大庭御厨の領主権を押領し、下総・相模の豪族的領主層である千葉・大庭の両氏を圧倒して、漸次関東武士を自己の支配下に組織づけていった。この際の在地支配権の獲得は、直接支配の貫徹を目的とせず、千葉・大庭という在地豪族級領主層を通じた間接支配に留まる、いわば棟梁としての支配関係であった。