義朝が相模を経略し、やがて武蔵に進出して武蔵武士を従えるが、それを決定づけた注目すべき事件は久寿二年(一一五五)に義朝の子義平と叔父義賢との間に争われた比企郡大蔵の戦いである。義朝の弟帯刀先生(たてわきせんじょう)義賢は早くから上野に進出し多胡郡多胡庄に本拠を定めていた。その因縁で彼は多胡先生ともいわれたが、仁平三年(一一五三)夏頃、武蔵国の豪族秩父次郎太夫重隆の養君となって比企郡大蔵館に通い住み、上野、武蔵まで勢力を振って周辺武士団を従えていった。ところが久寿二年八月十六日に義朝の嫡子悪源太義平と大蔵館で戦い敗死したため、上野の新田氏、下野の足利氏に匹敵する武蔵国における豪族的領主層の成長は挫折した。この戦いは武蔵国に侵入してきた義朝の勢力に対抗して、秩父重隆が上野国多胡庄から武蔵国比企地方に南進してきた女婿、帯刀先生源義賢を押し立てて生じた武力衡突の性格が強く、義賢の敗北により従来義朝への帰属を明らかにしなかった武蔵国の中小武士団が、以後急速に義朝麾下へと統合されていったのである。
このように義朝が武蔵の中小武士団はもとより、千葉・上総等豪族的領主層をも統合し得たのは、単に義朝の武力が他を圧していたからではなく、源家嫡流としての出自に由来する「貴種性」が在地武士団の首長の心をゆすり、その統合に大きく作用したからである。