仏教の伝来

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わが国にはじめて仏教が伝来したのは、一般的に『日本書紀』による欽明天皇十三年(五五二)であるといわれるが、「上宮聖徳法王帝説」によると、同天皇戊午年(五三八)であるという説もある。またそれ以前すでに朝鮮半島から九州地方に仏教が伝えられ、民間においてひそかに信仰されていたという説もある。

 ともかく大和地方に伝来した仏教は豪族層によって受入れられ伝播したが、関東地方への伝来も比較的早い時期であったとみられている。たとえば現東京都台東区の浅草寺に伝わる『浅草寺縁起』によると、同寺は推古天皇三十六年(六二八)に檜熊浜成・武成の兄弟が漁撈中に仏像を得てこれを建立したと伝えているし、また天武天皇の代(六七三~六八六)の創建と伝えられるものに、下野の薬師寺等がある。さらに武蔵国には、朝鮮半島からの帰化人が早くから来住しているのでこれら帰化人によって仏教が伝播されたことも十分考えられる。前記の『浅草寺縁起』にみえる檜熊氏も、大和漢(あや)人の一族で帰化人の系譜をひくものといわれるが、史書に明らかなものでは、前述のように天武天皇の十三年(六八四)五月、百済(くだら)の帰化僧尼と俗人二三人が武蔵国に配されており、ついで持統天皇の元年(六八七)四月には、新羅(しらぎ)の僧尼と百姓の男女二二人、同四年二月には新羅の韓奈末許満をはじめ一二人が武蔵に配されている。その後元正天皇の霊亀二年(七一六)には、駿河・甲斐・相模・上総・常陸・下野に住していた高麗(こま)人一七九九人が、武蔵国に移されて新たに高麗郡が設けられ、ついで淳仁天皇の天平宝字二年(七五八)八月には、新羅の帰化僧三二人、尼二人、男一九人、女二一人が武蔵国に移され、新たに新羅郡が設置されている。

 こうした帰化人らによって国内に仏教がひろめられたとみられるが、これが決定的になるのは天平十三年(七四一)三月、聖武天皇の詔により、諸国に国分寺と国分尼寺が建立されるようになって以後のことである。武蔵国分尼寺の存否は明かでないが、武蔵国分寺は現在の東京都国分寺市に建立された。同地に現存する寺跡の遺構からみて、武蔵国分寺は全国的にも規模の大きなものであったといわれている。この規模の大きな国分寺の建立には、多大な財源と労力を必要としたが、これには民衆の寄附と労働力提供に負うところが大きかったようである。当所から出土する文字瓦には、「埼」「足」「父」など埼玉郡・足立郡・秩父郡などの郡名の一字を刻んだものと、「入家」「太田」「笠原」など、入間郡大家郷・埼玉郡太田郷・同郡笠原郷などの郷名を記したものがある。なかには「戸主壬生部七国瓦」とか、「荒墓郷戸主宇遅部結女」など人名を記したものもある。郡名が記されている瓦は武蔵国の各郡に割当てこれを献納させたものであり、人名が記されているものは、信仰心のある個人の献納ではないかといわれている。

 この国分寺の建立は、仏教を国教とし、国家の鎮護、万民の済世のために、朝廷の命令によって建てられたものであるが、このころすでに仏教を信仰し、自発的に寺院を建立した私寺もある。たとえば比企郡都幾川村の慈光寺や、足立郡小室の法光寺、新座郡新倉の観音堂など、奈良時代以前の創建と伝えられている。これら寺院の創立年代は、縁起や寺伝によるもので、その真偽はつまびらかでないが、県内の各地から奈良時代の布目瓦や瓦塔などの遺物、ならびに礎石などが寺院址から出土しているので、すでにこの頃相当数の私寺院が建てられていたことは明かである。

 そしてこれら私寺の建立者は、それぞれ在地の土豪層とみられるが、必ずしも信仰のためでなく、寺田免租の特権をうける目的で建てられたものもあるようである。すなわち霊亀二年(七一六)五月の詔に、「諸国の寺家堂塔成ると雖も、僧尼住することなく礼仏聞くことなし、壇越子孫は田畝を惣摂して専ら妻子を養い、衆僧を供せず」といっている。つまり寺院を建てても僧・尼を置かず、免租の分は専ら妻子を養うのに使われているとある。

 いずれにせよ奈良時代仏教の特色は、護国思想に根ざすものといわれるが、庶民の間では、因果応報や現世利益(げんぜりやく)を求める性格が強かった。『日本霊異記』によると、聖武天皇の頃、武蔵国多摩郡鴨里の吉志大麻呂が、防人(さきもり)の役務を免れるため、母を殺してその喪に服そうとしたが、かえって自分の死を求めてしまったという説話、天平勝宝年間(七四九~五七)、多摩郡の大領の大伴赤麻呂が寺院を建てたが、寺の財産を濫用した、そしてこの濫用した財産を寺に返納しないうちに死亡してしまったので、死後役牛に生まれかわってその罪を償なうという因果応報の説話などが載せられている。さらに天平宝字年間(七五六~六五)、多摩郡小河郷の大真山継は、妻とともに観音の熱心な信者であったので、蝦夷征伐に従軍したときには無事であった。のち藤原仲麻呂の乱のときも、殺人の罪にとわれ処刑されようとしたが、観音信仰の報いで処刑を免れたという現世利益をうたった説話も記されている。この説話は、いずれも仏教宣伝の目的で作られた話であろうが、本地垂跡説とからんで、民衆の間に因果応報の仏教思想を定着させるのに大きな役をになったようである。

武蔵国分寺瓦

 しかし奈良時代に仏教がきわめてさかんであったのは、朝廷を中心としたもので、かならずしも一般の民衆にまでは普及されなかったのが実状であったといわれている。すなわち当時の仏教は、三論・法相・成実・倶舎・華厳・律などの、中国や朝鮮から伝来したままの宗旨であったので、その教義が難解であり貴族をはじめ特定の人びとから信仰されただけであった。その後平安時代になって伝教大師の天台宗や、弘法大師の真言宗が伝えられてからは、仏教は日本的なものにかえられ、本地垂迹説も一層巧妙に説かれたので、もはや神・仏は離れがたいものとなって全国的にひろまった。天台・真言の二宗が天下を風靡したのは、実はこの神仏習合の結果であったといわれ、今までの三論・法相などの諸宗もほとんど天台・真言に改宗された。

 こうした両宗の興隆により国分寺以外からも多くの名僧知識が輩出し、各地に仏寺や堂宇がさかんに建立されるようになった。この一世を風靡した真言・天台両宗のうち、武蔵国では天台宗が早い時期に弘布されている。これには比叡山延暦寺の高僧最澄・円仁の関東巡化の影響が大きいとみられる。最澄が叡山を下って関東伝導の旅に出たのは、『元亨釈書』によると、弘仁七年(八一六)であるといわれ、美濃から信濃を通って上野・下野にいたり当地で布教活動を行っている。この最澄の弟子には武蔵国埼玉郡の生れである円澄(舜光太師)や円仁(慈覚大師)などがいる。このうち円澄は比叡山の法灯を継承する延暦寺第二代の天台座主になっている。また円仁は下野国都賀郡の豪族壬生氏の出であるといわれ、同郡小野寺村大慈寺の広智に従って出家し、大同三年(八〇八)師の奨めで叡山に登り最澄のもとで伝法灌頂を授かった。承和五年(八三八)入唐し、同十四年帰朝、仁寿四年(八五四)円澄の跡を襲って第三代天台座主となり貞観六年(八六四)七一歳で没し、同八年に慈覚大師の謚号が贈られている。

 また『三代実録』によると、円仁は貞観二年(八六〇)朝廷から「武蔵国正税穀四百斛(こく)、上野国二百斛」の食邑を賜っている。その理由は「彼の国に於て、応(まさ)に宿祷に賽すべし、故に此賽あり」とあり、武蔵・上野両国で布教の功労に報いるためのものだとある。両国と円仁が密接な関係にあったことがこれでも知られよう。事実県内には円仁を開山と伝える天台宗の寺院がきわめて多い。たとえば川越喜多院の無量寿寺、桶川の泉福寺、神川村の善照寺、浦和の吉祥寺、大宮の慈眼寺、岩槻の慈恩寺、鳩ヶ谷の慈林寺、越谷の慈福寺(のちの浄山寺)などが挙げられる。

 これらはいずれも縁起や寺伝によるものであるので、史実としてこれをみることはむずかしいが、このうち多くの寺院の開創年代が、天長年間(八二四~三三)と伝え、この年代は、『元亨釈書』によると「爾後諸処を往来し、やや講席を張る」とあり、さらに『慈覚大師伝』には天長六年に「自後遙か北土に向う」とあって、円仁の関東巡化のときと符合している。したがって、円仁巡化に付会して開創期を天長年間に求めたのだろう。