野島の慈福寺

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越谷地域でこの円仁の開基と伝える寺院に野島の慈福寺(浄山寺)がある。同寺の寺伝によるとその開基年限は貞観二年(八六〇)であるという。そして円仁の武蔵・上野両国の巡化をつぎのように記している。

 慈覚大師が故郷下野国の日光権現へ参詣のとき川があった(おそらく野島を流れる荒川をさしたものであろうか)。この川には橋がかかっていなかったので川を渡れず、二日二夜岸辺で過した。三日目の早朝大木が両岸より川中に倒れているのをみて、この木をつたって川を渡ろうとしたが、この木は滑らかですべり落ちそうだったので困っていた。このとき近辺で草刈をしていた長兵衛という百姓が、木の上に草を敷いてくれたので無事にこれを渡り、日光権現に参詣したうえ中禅寺を開基することができたという。

 このとき大師は何年か後にまた廻国布教を行なうとの心願を立て、庭前の李の実を虚空に投げた。そしてこの実の落ちた所へ一宇を造営することをちかった。それから八年目、心願通り再び廻国の旅に出たが、武州崎西(きさい)郡大沼の脇に至ったとき、李の花がさかんに開花していたので、これは八年以前日光山から空中へ投げた李であるとさとり、心願どおり当所に一宇を造立した。これが岩槻の慈恩寺である。こうして一宇を成就後、さらに一木の根元から地蔵尊、中木から観世音菩薩、梢から薬師如来の三躰を彫刻した。このうち観世音菩薩は慈恩寺に、薬師如来は足立郡里村の慈林寺に、地蔵尊は崎西郡野島の慈福寺に本尊として納められた。このため三寺の寺号は頭に慈覚大師の慈をとり、それぞれ慈恩・慈福・慈林と名づけられた。しかしこの寺の開基や本尊の由緒記録は、後三年の役のとき、八幡太郎義家が奥州征伐に向ったときの通路にあたっていたため、兵火によって堂舎とともに焼失してしまった。このため慈福寺の由緒は不明となったが、三寺の開基年限は同時期のことである。またこのときの兵火によって地蔵尊の腰下が少し焼こげている。

 以上が慈覚大師と慈福寺にまつわる伝承である。その後慈福寺が浄山寺と改められたのは、天正十八年(一五九〇)徳川氏関東人国後、本尊の霊験あらたかという伝えを家康が聞いて当寺を訪れたが、この地清浄にして山林欝密としているのをみ、寺号を浄山寺と改めるよう申渡されたという。また慈福寺が天台宗から曹洞宗に改宗したのは、天文八年(一五三九)十二月に示寂した震龍景春和尚のときからである。したがってこの景春和尚が中興の開山となっている。二代は慶長五年八月に示寂した明山長清和尚であり、現住の石井敬徳氏は第二五代目であるといわれる。なお雲龍景春に関しては中世の項で記述する。

野島山地蔵尊略縁起