真言宗の弘布

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天台宗の関東弘布は、以上みてきたように早くから行われたが、真言宗の関東弘布はこれよりやや遅れた。これは真言宗の開祖空海(弘法大師)が、西国を中心に布教していたことによるものであろう。それでも空海の行脚伝説が関東にも広く流れており、空海を開山とした寺院もある。しかし空海が関東に来錫したという事実は不明であり、その多くは弟子たちによる弘布を空海に附会したものであろう。北葛飾郡杉戸町下高野の永福寺蔵による『龍灯山伝灯紀』によると、空海の関東巡化のとき、智満という僧が弟子となって修法し、同寺発展の基をきずいたとしているが、おそらく智満は西国で空海に従い修法したものであろう。ともかく真言宗が関東に弘布されるようになったのは、天台宗と同じく承和四年(八三七)の勅書で「傾年真言法教は京城に流伝すと雖も、未だ辺境に遍(あまね)からず、宜しく彼の宗僧で、講読及び修法に堪える者を選んで、毎年諸国講読師に任ずべし」(「続日本後記」)と示達されて以来、辺境武蔵における布教も活発をみたようである。

 県内には平安時代創建と伝える寺院が八〇ヵ寺ある。このうち天台宗が二三ヵ寺、真言宗が三八ヵ寺、浄土宗が一ヵ寺、曹洞宗が一四ヵ寺、臨済宗が四ヵ寺を数え真言宗がもっとも多い。もちろん浄土・曹洞・臨済の三宗は、後世改宗されたものである。越谷地域では古代の創建と伝えるものには前記の天台宗慈福寺と大相模の真言宗大聖寺の二寺院である。