式内社とは、『延喜式』の「神名帳」に登載された神社で、その数は三一三二座、二八六一社である。このうち武蔵国では四四社、下総国で一一社を数える。これを越谷周辺地域でみると、足立郡に足立社(現大宮市植水)、氷川社(現大宮市高鼻)、調社(現浦和市岸)、多気比売社(現桶川市)、埼玉郡に前玉社(現行田市)、玉敷社(現騎西町)などがあり、下総国葛飾郡には、意富比社(現船橋市)、茂侶社(葛西の内不詳)などがあげられる。
これら式内社は、国府を中心として所在しているが、いずれも古代交通路の要衝に位置し、当時すでに集落の発達していた地域とみられる。ことに大宮の氷川社は、足立郡の郡家の所在地であり、国造(くにのみやつこ)も当所に居を構えていたともいわれ、府中の小野社とともに、後世武蔵国一ノ宮といわれている。
これらの神社のなかには古代から中世にかけて、人々の移動や地域の開発などにともない、その祭祀圏を拡大する動きがあったとみられ、所々に同名の神社が勧請された。このうち下総国一ノ宮の香取社を本社とする香取社や、大宮の氷川社を本社とする氷川社は、越谷周辺地域にも数多くみられる。とくに特徴の顕著なものは、氷川・香取、そして久伊豆三社の祭祀地域が、越谷を中心に明確な区分をみせていることである。この区分がそのまま古代の文化や信仰や勢力のそれぞれの圏内を示しているとはいえないものの、興味ある現象であることは疑いない。
前頁に示した氷川・香取・久伊豆三社の分布図は、元大宮氷川神社の祠官家の出である故西角井正慶氏の研究で作られたものである。ただしこの三社の分布数は、明治年間から昭和の戦前に至るまでの幾度かの合祀を経て、現在の宗教法人として届出たものによったので、それ以前の社数はさらに多かった筈である。
ともかく、西角井氏の研究によると、氷川社は現東京都に五九社、埼玉県に一六二社、このほか茨城県や栃木県など他県に七社を数える。つまり氷川社の分布は大宮の氷川社を中心にして、主に武蔵国に集中していたといえる。このうち分布図でみられるごとく、越谷周辺では、隣接した草加市、川口市、浦和市、岩槻市に濃密な氷川社の分布がみられるが、いずれも綾瀬川の右岸を限界にしている。すなわち氷川社の祭祀圏は、西南地域の限界を示す多摩川とともに、埼玉と足立の郡界でもある綾瀬川が祭祀圏拡大の境界となっていたことを示している。また綾瀬川が荒川(元荒川)と一つになる蓮田以北の上流地域をみても、これまた熊谷の先まで、一社の例外を除けば荒川右岸を限界としている。あるいは綾瀬川通りが、古い頃、荒川の本流筋であったとみられないでもない。
一方香取社は、現東京都に一五社、埼玉県に一一九社、千葉県に七一社、茨城県に二一四社を数えるが、香取社の所在は主に沖積地帯などの低地に分布しているのが特色である。このうち越谷地域の分布状態をみると、隅田川左岸の葛西地域から利根川(現古利根川)通り左岸の二郷半領を限り、さらに利根川と荒川(現元荒川)が吉川で分岐してからは、荒川通り新方領に濃密な分布をみせ、それより杉戸から再び利根川通り左岸の幸手領を限界にして東に広がっている。つまり下部で利根川、中部で荒川、上部でまた利根川が香取社分布の西側の明確な境界となっていることを示している。おそらくこの境界は、古い時代における利根川の流路と関係があるかも知れない。
そしてこの地域のいま一つの特色として、久伊豆社の分布があげられる。久伊豆社は前述の氷川社と香取社の分布地域のちようど中間に位置し、綾瀬川の左岸と利根川の右岸、それに荒川の右岸を限り香取社と接して分布をみせている。すなわち久伊豆社は、氷川社と香取社の接点の中間地域へくさび状に割込むような形で分布していることが知れる。その数は南埼玉郡で三八社、北埼玉郡で一五社、このうち越谷市に一一社を数える。
このように現河川、あるいは古い時代の流路と思われる箇所を境界に、それぞれが明確な分布を示しているのは決して偶然ではないかも知れない。しかし今のところこれらの問題に触れるだけの資料がないので、今後の研究にまつほかない。