大宮氷川社

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これについては、氷川社の本社である大宮高鼻の氷川社についてみてみよう。この社の社名については、氷川社の縁起書によると、出雲国〓川(ひのかわ)の川上にある杵築(きずき)大社を勧請した社であるので、その川の名を採って氷川社と称すとある。また一説には、氷川の〝ヒ〟は氷の古語であり、〝カワ〟は泉を表現したものであるという。そして「氷川本紀」にも「氷川とは古へ水沼あり、下流は隅田川に接したる大いなる流れにして、其大きさ三里余り、広さ五、六丁、其後新田に開きしが今当社御手洗は古昔水沼の残存せるものなりと、池中蓴菜(じゆんさい)を繁生す、三冬の比(ころ)今も御手洗に堅氷を結ふ故に氷と云ひしを今は氷川と云ふなり」と記されているとしている。すなわち氷川社の御手洗(神池)はもと見沼が深く湾入した入江の跡であり、ここから清泉が湧出して見沼の水源となっていた。そしてこの池は冬には堅く氷が張ったので、当社を氷(こおり)といったが、今は氷川というようになったと伝える。しかも当所からは籾痕のある弥生式土器が出土しているので、早くから水田耕作が行なわれていたことは間違いない。土地の人びとは、この農耕に欠かせない水源である見沼を〝御沼〟または〝神沼〟とも書いて畏敬し、当所に農耕神を祀ったとみている。ともかくこの農耕の神である〝地主神〟あるいは〝水源神〟が、大和朝廷勢力の関東への波及とともに祖霊神となり、さらにこれが中央の諸神に仮託されて祭神が成立したとみるのが自然であろう、といっている(大宮市史(二))。

 その後、荘園の増大や政治の弛緩によって地方は紊乱し、神祇行政の権威は有名無実となって官社は衰退した。これにかわって山王社や春日社・神明社などの荘園鎮守社、あるいは諏訪社や八幡社などの氏神社が全国的に伝播され諸社が数多く勧請された。これら諸社は神仏混合の垂迹説により、仏教の伝播とともに勧請されることもあったので、この祭祀圏は全国に拡散されているのが普通である。しかし氷川・香取二社の祭祀圏は、古くから地域に密着していたとみられるので、古代の越谷地域はこの二社の強い影響下にあったのは疑いない。