源頼朝と武総武士の動向

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治承四年(一一八〇)四月、平氏政権の転覆を図って京都に挙兵した後白河院第二皇子以仁王と源頼政の企ては、もろくも失敗に終ったが、王が挙兵に当って諸国源氏に発した令旨(りょうじ)、伊豆の流人源頼朝に、平氏も頼政も組織できなかった地方武士団を軍事的に組織する一つのきっかけを与えた。すなわち頼朝は、この令旨をもとにして同年八月舅北条時政の後援を得、伊豆目代山木兼隆を急襲して伊豆を制圧し、進んで相模に入って石橋山に源氏再興の旗を挙げた。しかしこの時平氏側は、清盛より東国叛徒誅伐の命を受けた大庭景親・渋谷重国・熊谷直実等をはじめ相模・武蔵・伊豆の武士三〇〇〇を遣わして、僅か三〇〇余の頼朝勢を包囲した。このため頼朝はなすすべなく完敗し、海路安房に遁れた。一方、相模の豪族三浦義澄や和田義盛等は、頼朝救援のため石橋山に向かったが、頼朝の敗走を知って兵を返し、平氏側についた畠山重忠らと相州小坪に戦い、これを討ち破った。畠山重忠は前述のように十郎武綱以来、源氏と深い関係をもっていたが、義朝の失脚後平氏に従っていた。小坪合戦後、重忠はいったん武蔵に引揚げたが、すぐに一族の河越重頼・江戸重長をはじめ金子・村山・山口・児玉・丹党等、三〇〇〇余騎と共に、三浦氏の本城衣笠城を包囲、三浦義明を討ち取り緒戦は平氏の勝利に終った。

 しかし、安房に入った頼朝は、九月三日に小山朝政・下河辺行平・豊島清元(光)・葛西清重等、武蔵・下総・上野・下野などの在地有力武士に対して協力を呼びかけ、続いて四日には、頼朝が最も期待した上総国の豪族上総介広常と下総国の千葉常胤に使者を遣わして参向を命じた。これに対し広常はすぐには応ずる気配を見せなかったが、常胤は応じ、源家再興の時の到来を喜び、速やかに相模国鎌倉にまで進出すべきことを進言し、その時には常胤が一族を率いて御迎えの為に参向する旨を伝えたのである。

 九月十三日、三〇〇余騎を従えた頼朝は、安房を出て上総に入ったが、なお、広常の参加がなかった。下総では早くも千葉常胤が行動を開始し、まず背後の難を断つため平家方の家人であった下総国の目代を、子息の胤頼や甥の小太郎成胤に襲撃させて討ち取り、反平氏政権の態度を明らかにした。

 下総に入った頼朝は、下総国府においてすでに下総の西半分の支配を完成していた千葉常胤等一族三〇〇余騎の参向を受け、この軍勢をも加えて西に進み隅田河辺に到達した。十九日になって、去就の明確でなかった上総介広常が約二万騎を率いて参会した。この時の広常は頼朝がいかなる態度に出るか、彼の態度次第によっては頼朝を討取り、首を平家に献じようなどと二心を抱いていたというが、頼朝が却って広常の遅参を怒り、随従を許しそうもない様子をみて、頼朝の人主たる度量に感服し、害心を変じて和順したという。頼朝はその後一〇日余り下総に留まり、武蔵入部に対する慎重な政治工作を続けた。まず、翌二十日に土屋宗遠を使者として甲斐の武田信義に遣わし、自らは房総三国及び上野・下野・武蔵等の精兵を率いて駿河に至り、平氏の進攻を待つため、信義に一族を率いて黄瀬川に参向するよう命じ、一方武蔵の江戸重長や上野の新田義重にも同様の書を送って参加を求めた。

 『吾妻鏡』九月二十九日条によると、この頃の頼朝所従の軍兵数は、上総・下総・安房の武士団を合わせて、約二万七〇〇〇余騎に達しており、これに参向の予定されている甲斐源氏や、常陸・上野・下野の武士団を加えれば、五万の大軍となっていた。しかし目前には平氏方の有力武士として、かつて大庭景親らとともに頼朝追討に動いていた武蔵の豪族江戸重長が行手を阻んでいた。

 頼朝は重長に対し種々な懐柔策を行ったが成功しなかったので、平氏一族間の分裂策を企図し、一族の葛西清重に重長の誘殺を命じたが、これも不成功に終った。

 十月二日に至って、頼朝は、常胤・広常らと舟に乗って太井・隅田の両河を渡り、武蔵国に入った。従う精兵は三万余騎、ここでは豊島清元・葛西清重・足立遠元らが頼朝を出迎えたが、江戸重長は姿を見せなかった。頼朝勢は、二~三日と隅田宿に止り、翌四日に、葛西清重や江戸重長の所領から数千艘の舟を徴発して浮橋を造り、長井渡を渡って板橋に進んだ、長井渡の位置については種々の説があるが、『府中市史』では、現在の東京都荒川区三河島か、王子周辺の沼沢地に想定している。この長井渡で頼朝軍の威容を見た江戸重長は、もはや抵抗の非を悟り、一族の畠山重忠・河越重頼等とともに帰伏した。かくて武蔵の有力武士はすべて頼朝の膝下に集まり、頼朝は武総地域の経略に成功し、十月六日、父祖ゆかりの地である相模国鎌倉に入ったのである。