幕府の成立とその機構

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初期の鎌倉政権は、武門の棟梁源頼朝と、大・小の御家人層との身分的結合関係によって支えられた軍事政権であった。その関係上、早くから御家人層統御の機関が必要とされ、佐竹氏討伐直後の治承四年十一月には侍所(さむらいどころ)を設置し、御家人の進退を司らせた。

 一方庶務面では、京都より下向し挙兵以来頼朝の側近にあった藤原邦通・藤原広綱等を右筆として文書取扱その他の任に当らせたが、その後、武家政権としての実質をそなえるに至り事務も多端となったので、元暦元年(一一八四)十月には公卿の家政機関にならって公文所(くもんじょ)・問注所を相ついで設置し、ここに鎌倉幕府の三大中枢機関が発足したのである。この三つの機関は、当初頼朝の家政を処理する私的機関であったが、後に頼朝の政治的支配権が拡大、確立してくるにつれて公的性格を帯びた機関となり、建久三年(一一九二)頼朝が征夷大将軍に任命されると、これらの政治機構は幕府と呼ばれるようになった。この機関は、すべての権限が根元的には鎌倉殿=頼朝に集中していた点に特徴があり、各機関は単なる補助機関として採否の判決はすべて頼朝の親裁になっており、頼朝の死後は執権北条氏に引き継がれた。

 まず侍所についてみると、はじめは御家人統制の兵政機関であったが、後に公文所・問注所が成立するとその職掌分化も明確化し、軍事警察機関としての性格を強くしてきた。その職掌は謀叛人残党の捜索、御家人の騒乱鎮圧、犯罪の捜査逮捕、狼藉人の取り締り等と、刑の執行を主な職務とし、後には刑事裁判権も付与され、検断沙汰を一手に引き受けることになった。当初は鎌倉の警備にも当ったが、後には政所の保検断奉行に譲った。長官は別当と呼ばれ創立時には和田義盛が任命されたが、建保元年(一二一三)和田氏の失脚後、北条氏が独占して執権の兼任とし、次官の所司も北条氏の被官が任命され、北条氏の得宗(嫡流家)体制維持の大きな力となった。

 公文所は、はじめ平安期の本所の例にならい、政務上の文書を納め諸文書の評議決断を行う等々家務政務の一般を掌る機関であった。文治元年(一一八五)頼朝が従二位になって公卿に列してからは、政所(まんどころ)と改称し、新たに別当・令・案主・知家事等を補し、下文(くだしぶみ)署判の法を定めた。政所から出す公文書は公卿の例にならって形式を整え「政所下文」といい、別当と家司が連署し、初代の別当には法制家の大江広元が当り、寄人(よりうど)の一人に足立郡出身の足立遠元が挙げられている。頼朝時代の政所は、幕府政治の中心機関として立法および裁判をも管掌していたが、北条氏が別当以上の権力をもつ執権として幕府の中心に立ち、ことに評定衆、引付衆が設置されると、政所は単なる家務及び財務処理機関と化してしまった。しかし、財務の重要性により別当は北条氏一門を任ずるのが例であった。

 問注所は公文所設置直後、一般民事訴訟担当機関として設置され、後には諸国の非御家人および凡下の訴訟をも掌り、所務沙汰(不動産訴訟)が成立してからは、関東御分国の雑務沙汰(債権及び動産の訴訟)の審理裁判と、所務沙汰の訴状の受理と配賦事務を掌った。長官である執事ははじめ三善康信が任命され、以後康信の子孫が世襲していった。

 正治元年(一一九九)頼朝が死ぬと、北条氏の当主が幕府の実権を握り執権と称した。執権の権限は幕政全般にわたり、政治的には政務御代官、軍事的には軍営御後見、裁判上には理非決断職としての権限を有していた。元仁元年(一二二四)北条泰時が執権職につくと、執権体制を強化するために合議制を採用した。まず一族の有力者を連署に任じて幕府の公文書に加判をさせ、また老臣宿将及び政務担当の実力者一一人を選任して評定衆に任じ、立法行政上の重要事項を審議させたり、民事訴訟を審理させた。県内出身武士では中条家長がその一人に挙げられている。次いで執権北条時頼は建長元年(一二四九)に、裁判の公平と迅速化を図って、北条氏一族や有力御家人、文筆に長じた者を選んで引付衆に任じた。やがて評定衆・引付衆は政訴・問注訴の仕事の大部分を掌り、幕府政治機構の中心となっていった。このほか幕府の自衛警備のために置かれたものに番衆があった。

 以上の中央機関のほかに、地方組織としては京都に総守護(後に六波羅探題)、九州に鎮西奉行、奥州に奥州総奉行を置き、その地方の治安維持や御家人統制に当ったが、もっとも強力に鎌倉幕府の支配力を地方に及ぼしたのは守護・地頭であった。守護・地頭は、文治元年(一一八五)大江広元の献策により、頼朝が弟の義経、叔父行家の追捕の名目で勅許を得、諸国の荘園、公領に設置を許されたものである。

 守護は国毎に置かれて国内警備を司り、また後には御家人の大番役催促を掌った。設置当初の守護の権限は必ずしも固定化していなかったが、次第に大犯三箇条(大番催促・謀叛・殺害人の検断)に限定された。しかし、時代が降るにつれてその権限は治安警察権から一般行政権へと拡大し、守護の国司的性格が強まっていった。そして、その権限範囲も公領・荘園等、本来幕府支配権の及ばない地域にも治安維持を名目として拡大していった。武蔵国では北条氏が累代国守を世襲していたため守護は置かれず、守護相当職として武蔵国総検校職が置かれていた。

 地頭はもと荘官の一種で、荘園の管理や租税徴収にあたる私的役人であったが、頼朝はこれを制度化して公的なものとし、全国の国衙領・荘園に設置して御家人をこれに任命した。地頭は守護の指揮を受けて荘園管理、年貢徴収、治安維持(検断)等の権限をもっていた。この地頭の職務に対しては、前々からの得分の他に田地一反につき米五升の兵糧米を徴収する権限を与えられ、後に地頭職は一種の収益権と見なされた。地頭には、本来の所領を地頭職補任という形で再確認された本領安堵地頭(本補地頭)と、恩賞として幕府から与えられた新恩地頭の二種があり、承久の乱後の新恩地頭を新補地頭と呼んだ。武蔵武士では後述のように承久の乱の論功行賞により西国筋に地頭職を得たものが多かった。

 地頭設置の主な目的は、義経・行家等謀叛人或いは夜討強盗など梟悪人追捕にあったが、県内で地頭が警察権を行使した例は、『吾妻鏡』康元元年(一二五六)六月二日条に見える記述であろう。それによると、その頃県内を通過していた鎌倉街道の奥大道には、夜討・強盗といった盗賊が出没し往来の旅人を悩ましたので、幕府は、街道沿いの地頭二四人に御教書を発して厳重な取り締まりを命じている。この時越谷周辺の地頭で悪党の取り締まりを命ぜられたのは、後述の渋江太郎兵衛尉等五人であった。

 次に幕府の支配圏についてみると、鎌倉幕府は律令政権を全く否定し、従前とは質の異なる革命政権を樹立したというよりも、朝廷から国政の一部を委ねられるという形で成立したため、その経済的基礎は公家の場合と同様に国衙領と荘園にあった。当時の幕府の勢力範囲は関東御領・関東進止御領・関東御口入地・関東御分国と呼ばれた四つの地域から成っていたが、その具体的な範囲については意見が分れ明確でない。

 まず、関東御領は頼朝が荘園領主として本所・領家(預所)の地位権限をもっていた直轄地域で、その大部分は平家没官領であり、これらは平家滅亡の際一旦朝廷に没収された後、あらためて頼朝に与えられたものであった。武蔵では足立郡や、足立・埼玉両郡にまたがっていた大河土御厨などが平家没官領であった。このほか承久の乱後、公家方より没収した所領も含まれていた。関東御領は地頭職が御家人の恩給の対象となっただけでなく、年貢と公事は幕府の財政的基盤となっていた。関東進止御領は、文治元年十一月、頼朝が勅許を得て補任権を与えられた地頭御家人に対する恩給領である。この地は国司・領家が地頭職を補任改替することができず、すべて関東の進止に属し別名関東御成敗地と呼ばれ、広くは関東御領と称することもある。進止御領の地頭は幕府に年貢公事を納めず、御家人役(関東公事)の勤仕に止まっていた。

 関東御口入地は、公領や荘園では国司・領家が地頭や荘官の任免権を有していたのに対して、幕府が御家人を口入して地頭職を得たもので、御家人跡の口入と、新所職(特に請所)の口入の二つから成っており、関東御分国には後者の幕府による口入請所が多かったという。

 関東御分国は鎌倉将軍家の知行国で、将軍家が御家人を国司に推薦し任命された。『吾妻鏡』元暦元年六月二十日条によると、六月五日の小除目でかねての頼朝の要請により、三河・駿河・武蔵の国司に、範頼以下源氏一族の面々が任命されたのが最初である。この時武蔵守となったのは平賀義信で、頼朝から国政を賞され、以後の国司は義信を見習えと、国衙に壁書された人物であった。翌文治元年(一一八五)三河国を失ったが、代って六ヵ国を加えられ計八ヵ国となり、伊予を除くとそのほとんどが東国に存在していた。同二年には相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後の九ヵ国となり、これをピークとしてのち減少の一途を辿り、幕末までは四~六ヵ国に止った。このうち終始不変であったのは武蔵・相模・駿河の三ヵ国といわれ、幕府にとって本拠相模国と並んで武蔵国が重要な位置を占めていたことがわかる。このため武蔵や相模は北条氏とその一族が独占していた執権や連署が国守を兼ね、また守護の職権をも行使した。特に武蔵では後述のように執権北条時房が武蔵守の時、武蔵国留守所総検校職や郷司職を補任して支配体制を強化した。後には武蔵守と国務が分離し、北条得宗家が国務と守護を兼ねたので幕府の威令は武蔵国内に最も貫徹した。