武蔵国総検校職の復活

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北条氏の武蔵支配体制の中で重要な位置を占めた武蔵国総検校職は、代々秩父一統の惣領筋が就任し、早い例としては前九年の役に頼義の麾下として従軍した秩父武綱の子重綱の就任を挙げることができる。当初の職分は不明だが、後に嫡流畠山氏が継承し、治承四年には一時、江戸重長が任命されていた。その後重忠の手に戻り、重忠が讒にあって二俣川で討死するや一時中断し、後に次男の流れである河越氏の手に移ったのである。総検校職は北条氏のみならず秩父一族の武蔵支配の上でもかなり重要な意味をもっており、一族の領主化と深いかかわりを有していた。

 『吾妻鏡』嘉禄二年(一二二六)四月十日条によると、北条泰時は、元久二年(一二〇五)畠山重忠討死以来空席だった留守所総検校職を、先祖秩父出羽権守重綱以来代々補任されてきたという理由で、一族の河越三郎重員を任命した。留守所とは国司が任地に赴かない時の国衙のことで、その長である総検校職の地位に重員が任ぜられたのである。ところが重員は五年後の寛喜三年(一二三一)四月に至って、泰時に対し武蔵国総検校職には四ヵ条の掌事があったけれども近年悉く廃絶してしまっているので旧例により執行したいと次のように愁訴している。

 二日、戊午、河越三郎重員は、武蔵国の総検校職なり。当職に付いて、四ヶ条の掌事あり。近来悉く廃(すた)れ訖(おわ)んぬ。仍て例に任せて執行すべきの由、武州愁(うれ)へ申すの間、岩原源八経直を奉行として、今日留守所に尋ね下さる云々。(『吾妻鏡』寛喜三年四月二日条)

それに対し、泰時は公文所の家令である岩原源八経直を奉行として国府へ派遣し、実情を調査させた。鎌倉時代に入って武蔵国総検校職はかつて畠山重忠がその任にあったが、その死後二〇年間、北条氏が武蔵を直接掌握しようとしたためか、その職を置いていなかった。そのため従来総検校職が行なってきた職務は、自然廃絶される結果となり、重員が再び任ぜられても執行する仕事が明瞭でなく、右のような提訴がなされたのであろう。

 その結果、総検校職の職務内容下問に対し次のような事情を伝えている。

 河越三郎重員の本職四ヶ条の事。去る二日留守所に尋ね下さるに、秩父権守重綱の時より、畠山二郎重忠に至るまで、奉行し来るの条、重員の申状に符合するの由、在庁散位の日奉(ひまつり)実直・同弘持・物部宗光等の去る十四日の勘状、留守代帰寂の同十五日の副状等到来す。仍て相違無く沙汰致すべきの由と云々。(『吾妻鏡』寛喜三年四月二十日条)

これによると、重員の申状では、総検校職の職務に四つの役目があったこと、それを秩父重綱から畠山重忠まで実際に執行して来たこと、留守所の在庁官人である日奉・物部、並びに留守代帰寂がこのことを調べた結果、重員の申状通りであると鎌倉へ報告したのである。そこで重員の提訴が認められ、泰時から「相違なく沙汰致すべきの由」を令せられたのであった。

 泰時が総検校職を復活したのは、元仁元年(一二二四)父義時死去の後をうけて執権職につき、承久の乱後の多難な幕政に当っていて武蔵守の職務を遂行することが困難な状態にあったためと思われる。そこで武蔵の国政を円滑に行うため総検校職を復活し、また、北条得宗の武蔵支配を貫徹するため、武蔵の雄族秩父一族の河越氏がもっていた伝統的立場を利用したものであった。しかし、これは他面河越氏にとっても重頼失脚以来勢力を後退しつつあった自家の勢力挽回策ともなり、重員は補任後畠山重忠以前の総検校職の姿を復活しようと努力したのである。

 ところでその「四ヶ条の事」に関し、『吾妻鏡』の貞永元年(一二三二)十二月二十三日条にはその具体的内容と思われる次の事柄が記されている。すなわち、

 武蔵国惣検校職并びに国検の時の事書等、国中の文書の加判及び机催促の加判等の事、父重員の譲状、河越三郎重資、先例の如く沙汰を致すべきの由、仰せらると云々。

右によると、武蔵国総検校職がこの年河越重員から嗣子重資に譲られたこと、文中の①武蔵国惣検校職のこと(武蔵の御家人の大番催促、謀叛殺害人の検断等、守護の行政的職務であろう)、②国検のときの事書(田地の調査を行った時に添書する)、③国中の文書の加判(国衙から発給する文書に加判)、④机催促の加判(国衙における庶務的な仕事)の四ヵ条がその職掌と思われる。これをみると総検校職は他国の守護に相当する職務内容を持っていたことがわかり、一般的にはこれをもってその職掌と考えられていた。ところがこの文をよく読むと、次のような問題点を指摘できるのである。

 すなわち、武蔵国総検校職の職務内容の説明に「武蔵国惣検校職」の語を充てたのでは説明にならないこと、その次に「并びに」と並列の意を表わす語があるので、文字通り解すれば総検校職のほかに国検の時の事書等の三つの職掌を河越重員がもっていたとも理解できるのである。いずれにせよ武蔵国総検校職は、北条氏・河越氏はもとより、越谷周辺の武士たちにとっても重要な意味をもつものであった。