久伊豆神人との争い

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源頼朝が豊受大神宮に大河土御厨を寄進してから、一一年を経過した建久五年(一一九四)六月三十日条の『吾妻鏡』の記述によれば、「武蔵国大河土御厨に於いて、久伊豆宮神人等喧嘩出来の由その聞え有り、驚き思食(おぼしめ)すに依って、尋ね沙汰せしめんがため、掃部允行光を下し遣わす云々」とあって、大河土御厨の神人が久伊豆宮の神人との間に戦争を生じ、このことを聞いた頼朝が大いに驚いて家人の二階堂掃部允行光を遣わし、善後策を講じさせたというのである。

 右の記述によると、当時、頼朝直接の寄進地として幕府の勢威を背景に在地に勢力を振っていた大河土御厨の神人層に対し、これに敢然と対抗しうる久伊豆宮の神人勢力があったことを示しており、またその紛争が将軍頼朝を驚愕させたというから、紛争の深刻さと久伊豆宮勢力の大きさを窺うことができる。埼玉郡の古利根・元荒川に挾まれた沖積地域には、前述のように久伊豆神社の分布が多く、著名な社には市内越ヶ谷に鎮座している久伊豆神社、岩槻市太田の久伊豆神社、北埼玉郡騎西町の玉敷神社の三社がある。越ヶ谷久伊豆社は社伝によると「創立年代不詳なれども古老の伝に当社は応仁元年伊豆国、宇佐見の領主宇佐見三郎重之、室町将軍家より武州前玉郡木崎の郷を賜わり、伊豆国加茂郡三島神社をこの地に斎ひしもの」と伝え、岩槻久伊豆社は「人皇三十五代欽明天皇ノ御宇、土師(はじ)氏武蔵国埼玉郡岩槻ニ社頭ヲ建立スト云々、中興略記ニ曰ク、開基ハ相州鎌倉扇ヶ谷上杉修理太夫定正、文明年中武州在住ノ時、家臣太田道灌承君意岩槻城ヲ築キ、于時久伊豆神宮ヘ定正軍事ヲ誓ス、依テ社壇ヲ当城中ニ再興スト云フ」とあり、共に鎌倉期のことについては触れる所がなく、中興を室町期としている。

 これに対し騎西の玉敷社は、近世まで専ら久伊豆大明神といわれ、延喜年間(九〇一~二二)式内社に列した由緒ある神社であって、騎西領四八ヵ村の総鎮守として、近在の久伊豆社は同社からの分霊奉斎と伝えられている。『新編武蔵風土記稿』には騎西町場の久伊豆社の説明として次のように述べている。

 当社は騎西領中総鎮守にして古社なり、「東鑑」に建久五年六月晦日、於武蔵国大河戸御厨久伊豆宮、神人喧嘩出来云々と見えたるは、ここの事なるべし、又「延喜式」神名帳に載る所、埼玉郡四座の内、玉敷神社祭神大己貴命とありて、今何れの社たるを伝えず、岩槻城内久伊豆社あり、其余郡内所々に久伊豆社と唱ふるもの多くあれど、何れもさせる古社とも思はれざれば、若くは式に見え「東鑑」にも沙汰あるは当社ならんか、されど千百年の古へを後の世より論ずれば、如何にともいひがたし、久伊豆と改めしは、騎西郡内にありて騎西久伊の語略相通ずれば、唱へ改めしといえど、是も付会の説とをぼしく、社伝等には拠なし、(下略)

騎西の玉敷神社

 ところで久伊豆神社の社名は一般に〝ヒサイヅ〟と呼ばれているが、また、〝クイヅ〟とも呼ばれ、いずれが正しいか判然としない。延喜式神名帳には二八六一社の神名が掲げられているが、「久」の字はいずれもクの音に用いている。井上頼圀はクニシ(国司)の転訛としてクイヅ説を支持し、足立鍬三郎はヒサ(久)を北の意味として伊豆国や伊豆権現との関連を説き、また久伊豆社は祭神が大己貴命であるから国津神信仰の名残りとし、当地の産土神の党から、私市(キサイチ)の転訛とする説等もあり、現在のところいずれが是か明かでない。いずれにせよ久伊豆神社は、その地域神としての性格上、埼玉郡内に勢力を張った私市氏や野与党諸氏の崇敬を受けて開発地に分祀され、それら中小武士団の精神的支柱となったのである。