承久の乱

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北条時政の退隠後、幕府の実権が執権義時の手に集まると、将軍は名目上のみの存在となり、実朝は政権からはなれて、歌道や蹴鞠に溺れる生活を送った。そして官位の昇進のみを望みとして、建保六年(一二一八)十二月には、右大臣にまで昇進した。しかし翌承元元年(一二一九)正月、義時の陰謀によって、右大臣拝賀の礼を鶴岡八幡宮で行った帰途、頼家の遺子公暁のために暗殺され、ここに源氏の正統は断絶し、幕府における北条氏の独裁的地位が確立した。

 この後、義時は源氏の一族阿野時元の駿河挙兵を討滅して、源氏一族の将軍職継承の策動を封じ、皇族将軍の実現に努力した。しかし院は皇族将軍の東下を拒み、かえって院の寵姫伊賀局亀菊の所領摂津国長江・倉橋両荘の地頭の改補を迫った。この申入れの真意は、幕府の態度の強弱を試すことにあったと伝える。これに対して義時は、頼朝の時に補任した地頭職は容易に改変しないという幕府の基本方針を示して、院の要求を拒否し、弟の時房を答使として一〇〇〇騎の兵をもって上洛させ示威をした。こうして皇族将軍問題と地頭罷免問題をめぐって院と幕府の対立は表面化するにいたった。

 幕府では、皇族将軍を断念して、源氏と血縁関係のある左大臣藤原道家の子の頼経を鎌倉の主(摂家将軍)に迎えた。このため、幕府政治の混乱を予想した院の期待は破れたが、院側の倒幕の気運は次第に高まり、後鳥羽上皇は順徳天皇とともに、少数の公卿や武士を集めて討幕の議を進めた。そして、北条氏に反感をもつ御家人の参加を期待して、義時追討の宣旨を諸国に下せば、離反した御家人が義時の討伐に参加すると考えていた。このため院の近臣藤原秀康に命じて、在京の三浦胤義を誘い、胤義の兄で鎌倉の有力者である義村に義時追討を勧めさせ、五月十五日には諸国の守護・地頭に義時追討の院宣・宣旨を発したのである。そして有力御家人の幕府からの離反を期待して、秀康の所従押松を鎌倉に潜行させた。

 一方幕府は、京都守護や西園寺公経らを通じて院の動静を探り、事変の勃発を報じた公経の牒報は三月十九日に鎌倉に達し、また同日鎌倉に入った押松も直ちに捕えられ、所持した宣旨及び東国武士の交名注進状等が押収された。この時、義時が最も憂慮したのは幕府御家人の帰趨であったが、御家人等は武士領主層の階級的利益を代表し、実現し得るのは公家政権ではなく幕府であるという認識をもっており、また政子が頼朝以来の幕府の重恩を説いて、士心の帰一に努めたことも御家人統制に大きく作用した。このため院宣を受けた三浦義村をはじめ有力御家人は幕府に対する忠誠を誓い、幕府側では安心して事に当たる態勢を整えることができた。かくて幕府は大江広元の主張により、大軍を西上させることに決し、遠江以東の諸国に御家人の動員を令して、泰時・時房を大将軍とした幕府軍を東海・北陸・東山の三道から大挙西上させた。その数は一九万人余といわれている。西上した幕府軍は、連戦連勝して忽ち京に進入して朝廷側の守備軍を潰滅させた。

 この結果、北条氏は後鳥羽ら三上皇の配流と天皇の廃位、首謀の貴族や武士の処罪をおこない、院方の所領三〇〇〇余ヵ所を没収し、これを戦功の将士に頒って新補地頭とし、武蔵武士等の西遷の原因をつくった。この新補地頭(従来の地頭を本補地頭と呼ぶ)は、荘園・公領一律に田畑一一町につき一町の免田(地頭給)と一段につき五升の加徴米が与えられ、その他の税も二分するという権利を得ており、この後の荘園本所側に対する侵害や農民への苛酷な搾取を頻発させた。こうして承久の乱は、幕府創設以来の、朝幕間の政治的力関係を完全に逆転させ、武家政権の優位を決定づけたのである。

 この乱に際して、執権北条氏が最も頼みとしたのは武蔵武士であって、それは、政子が安保刑部丞実光以下武蔵の国勢が至るのを待って攻め上るべしと言った言葉によく示されている。事実、東海道を攻め上った相模守北条時房、武蔵守北条泰時の直属の将兵として武蔵武士は最も目ざましい活躍を示し、安保実光以下多数の死傷者を出した。このように武蔵武士は幕府勢の中核であったが、少数ではあるが朝廷側についた者もあった。児玉庄四郎家定、中条下総前司成綱らがそれであり、武蔵武士が互いに敵味方となって争う悲劇を生じたのである。

 この戦いに従った埼葛地域の武士は次のとおりであった。

  魚沼工藤三郎 宇治合戦負傷 北葛飾郡松伏町

  太田五郎 宇治合戦戦功 北葛飾郡鷲宮町

  太田六郎 宇治合戦戦死 北葛飾郡鷲宮町

  大河戸小四郎 宇治合戦戦死 北葛飾郡松伏町

  鷲四郎太郎 宇治合戦負傷 行田市忍

  河原次郎 宇治合戦負傷 北埼玉郡南河原村

  行田兵衛尉 宇治合戦負傷 行田市

  清久左衛門尉 宇治合戦戦功 久喜市

  須賀弥太郎 宇治合戦負傷 行田市須賀