太田庄の開発

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鎌倉幕府は、幕府の軍事的経済的基盤として本拠相模と並んで武蔵を重視し、武蔵荒野の開発には多大の努力を払っていた。『吾妻鏡』には建久五年(一一九四)の太田庄堤の修固をはじめ、仁治二年(一二四一)の多摩川利水開発までの約五〇年間に、正治元年(一一九九)・承元元年(一二〇七)の二度、国内地頭に対し荒野開発令を発しており、またこのことが北条氏の首導で行われている点からみて、幕府内における北条氏の覇権確立と武蔵支配とが大きく絡み合っていたことを示している。

 まず正治元年の最初の開発令は頼朝死後の御家人体制動揺の中で武蔵のみならず東国全般の地頭に対し発せられたもので、水の便のある荒野の開発を命じ、荒不作地と称し乃貢(だいこう)(年貢)を減少させるようではその領有を禁止するというきわめて厳しい態度を打出していた。しかし荒野の開墾には、水利灌漑施設の整備、労働力の確保、適地の選定等多くの問題を含んでいたため、実施はスムーズに行われなかったらしく、この九年後の承元元年には武蔵守北条時房に命じて、重ねて国内地頭に開発令を下し、大江広元を奉行人に任命するなど、武蔵開発に対する幕府の並々ならぬ決意を示している。

 そしてこの間に、正治元年十一月には田文(たぶみ)(田畑の面積・領有者名を記した土地台帳)の調整や検住を実施し、耕地増加に伴う所領紛争の防止や年貢収納の確保が期されたのである。建暦二年(一二一二)の武蔵国諸郷に対する郷司職補任はこの体制強化の一環とも考えられよう。

 次いで寛喜二年(一二三〇)正月、執権北条泰時は公文所(くもんじょ)の名により次のように太田庄開発を命じた。

 (寛喜二年正月廿六日)己丑(つちのとうし)、武州公文所において武蔵国太田庄内の荒野を新たに開くべきの事、その沙汰あり、尾藤左近入道道然これを奉行す云々

 太田庄は、埼玉郡太田郷を中心に荘園化した皇室御領といわれるが、『新編武蔵風土記稿』によると、近世太田庄に属していた地域は南埼玉郡の北部、北埼玉郡の大部分と大里郡の一部にかけた一八二ヵ村にのぼり、文字通り広大な荘園であった。吾妻鏡の文治四年(一一八八)六月条には「八条院領武蔵国大田庄」とあり、平安末期以来鳥羽天皇第三皇女八条院の所領であったが、その後鎌倉幕府の領有下に層したのである。この地はもと利根川・荒川をはじめ大小の諸河川が乱流した沖積地で、水便のよい平坦な地域は早くから開発されていたが、概して治水の面で問題があったのである。このため幕府は発足まもない建久五年十一月、荘内の堤防修理を実施して翌年三月以前に修功するよう達している。こうして水利灌漑、堤防修築事業を背景として、寛喜二年幕府が本格的開発に乗り出し、尾藤左近入道を奉行人に命じ周辺地域の地頭等を動員して大規模な開発事業を展開したのである。

 開発の手はさらに入間地域、武蔵野台地にも伸ばされた。貞永元年(一二三三)幕府は武蔵榑沼(くれぬま)堤が欠壊大破したので、周辺地頭等に修築を命ずると共に、さらに太田庄開発に従った土木功者である尾藤左近入道を再度起用し、石原源八の両名を奉行に任じて現地へ下向させ、領内百姓を総動員し、かつ在家から米二俵宛を徴発して大々的な修築事業を実施した。榑沼の地がどこか明らかでないが、『埼玉県史』は入間川・越辺川の合流点に近い入間郡坂戸町横沼の地に充てている。

太田庄総鎮守 鷲宮神社

 武蔵野台地の開発は仁治二年(一二四一)十月に定められ、その前提として将軍家は十一月四日に武蔵野開発の方違いのため秋田城介義景の鶴見別荘へ大行列を従えて赴いた。そして同月十七日、箕匂太郎師政に対し、父政高が承久の乱の時、北条時房に従って勢多橋で挙げた軍忠の賞として多摩野荒野を給している。この行賞は前々から申請されていたが封地が無いため延引され、今回の水田開発の儀によって宛行われたものである。十二月二十四日多摩川を掘り通し、その流れを堰上げて武蔵野に通水し、水田化する大事業の施行を終っている。この時栢間左衛門尉・多賀谷兵衛尉を奉行に任じているが、栢間氏は南埼玉郡菖蒲町栢間(太田庄)、多賀谷氏は騎西町田ヶ谷の出身で共に野与党の族、おそらく寛喜二年の太田庄開発に従事したと思われ、その経験と技術によって武蔵野開発の奉行に挙げられたのであろう。

 こうして耕地拡大・堤所修築事業と共に幕府は国検と田文調整を急ぎ、建久七年(一一九六)惣検を実施、三年後の正治元年十一月、前述のように田文調整に着手した。しかし難事業だったらしくて遅々として進まず、承元四年(一二一〇)幕府は田文調整を沙汰督促し、さらに建暦元年(一二一一)武蔵外二国の田文作製を督促している。完成は文永九年(一二七二)十月のことであった。かくて武蔵野の開発は著しく進展し、平安時代に三万六六九〇町(倭名抄)だった田地が、鎌倉時代には五万一五四〇町(拾芥抄)に拡大した。しかし、時代が降るにつれて開発も飽和状態を示し、武蔵に本貫を有していた有力御家人も、北条得宗家の武蔵支配の徹底と、承久の乱後所領を東北・西国に給された関係上、彼の地に赴くこととなった。