越谷周辺の武士の動き

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鎌倉時代の越谷周辺には、桓武平氏の流れをくむ野与党の渋江氏や箕勾氏、同じく平氏の出の鳩谷氏、名族小野氏に属する横山党の矢古宇氏、春日部郷の根本領主である春日部氏、藤原氏の後裔である足立氏や下河辺氏等がいた。これらの武士たちは、古代の項で述べたように必ずしも中央貴族と直接結びつくとは決められないが、在庁官人の系譜を引く足立氏や下河辺庄の庄司であった下河辺氏のような領主級武士を除けば、開発土豪の系譜を引く中小級武士であった。彼等は頼朝の武蔵入国後頼朝に従い、御家人となった地頭層であった。以下、越谷周辺の当時の動きを知る手だてとして各氏の活躍ぶりを紹介すると、次のとおりである。

 〔渋江氏〕 渋江氏は渋江郷(岩槻市)を本貫とした野与党の一族で、大蔵次郎大夫経長の三子経遠が渋江に住して渋江平五郎と称したのにはじまる。一説には、経遠は箕勾二郎大夫経光の兄ともいう。『吾妻鏡』建保元年五月十七日条によると、渋江氏は大河戸御厨内の八条郷(八潮市)の地頭でもあった。この八条郷の領主はかつて山内先次郎左衛門尉政宣であったが、政宣が建暦三年(一二一三)の和田氏の乱に関係して失脚したため、幕府はその所領を式部大夫重清に与え、地頭職については従前どおり渋江五郎光衡に安堵している。この渋江五郎光衡は、「野与党系図」によると渋江氏をも称していた八条五郎光平のこととも考えられる。

 また、康元元年(一二五六)幕府が鎌倉街道奥大道の盗賊取締りを沿道の地頭たちに命じた時、渋江太郎兵衛尉もその一人として下命を受けている。これは当時、地頭領主制の形成と共に、荘園管理をめぐって悪党と呼ばれた無法の輩が全国的に出没していたことと関係していた。

 悪党の横行は、幕府の膝元である武蔵・相模にも見られ、すでに承元二年(一二〇八)六月、狛江入道増西に率いられた悪党五十余人が武蔵威光寺領内に乱入して苅田狼藉をはたらいており、仁治二年(一二四一)十月には群盗が鎌倉武蔵大路の民家を襲撃したという事件も起きている。くだって、康元元年六月には、奥州へ通ずる奥大道に夜討強盗が蜂起して往返の旅人の煩をなしていたのである。これに手を焼いた幕府は六月二日に次の御教書を発して警固の任を渋江太郎兵衛尉等路次の地頭二四人に命じ、自領内の宿々に限らず他領といえども速やかに召捕るよう達すると共に、住人からは犯人を隠匿しない旨の起請文を提出させ、厳正な取締りを命じたのである。

 奥大道の夜討強盗の事、近年蜂起為るの由其の聞え有り。是れ偏えに地頭の沙汰人等、無沙汰の致す所なり。早やかに所領内の宿々。直人を居(す)え置き警固すべし。且つ然る如くの輩有らば、自他領を嫌はず、見隠すべからざるの由、住人等の起請文を召され、其の沙汰致さるべし。若し尚ほ御下知の旨を背き、緩怠せしむるは、殊に御沙汰有るべしの状、仰せに依って執達件の如し。

  建長八年六月二日

   某殿       (『吾妻鏡』康元元年六月二日条)

 この時、警固を命ぜられた越谷周辺の地頭は、渋江太郎兵衛尉・伊古宇又二郎・清久右衛門二郎・鳩井兵衛尉跡・矢古宇右衛門次郎らであった。

 〔箕勾氏〕 箕勾氏は『野与党系図』によると、前述の経長の二子経光が箕勾郷(岩槻市)に住して箕勾を称したのに始まる。

 左近大夫政高は、幕府の御家人となり承久の乱のとき北条時房の陣に加わって勢多橋の戦いで軍功を立てた。しかし、その功に対して適当な所領がなかったので、恩賞はそのままとなっていたが、仁治二年(一二四一)に幕府が武蔵野を新開し、多摩川の水を引いて水田化する計画を立てたとき、子の太郎師政に対して先年の父の承久の勲功として多摩野荒野を与えた。これによって師政は、多摩野に所領をもっていたのである。

 〔鳩谷氏〕 鳩谷氏は別名鳩井氏ともいい、足立郡鳩井郷(鳩ヶ谷市)の開発領主で、幕府の御家人となり当郷の地頭に補任されていた。出自は「中興系図」に「鳩谷平、本国武蔵足立郡」とあり、桓武平氏の後裔と伝えている。

 寛元元年(一二四三)一族の鳩谷兵衛尉重元は、鳩谷郷地頭職の領有をめぐって紛争を起し、懸物押書(かけものおうしょ)を提出して問注所へ提訴した。しかし奉行人らはこれを許可しなかったので、これをめぐって三月十二日に幕府で臨時評定が開かれ、重元はここへ参向して庭中で言上し沙汰を受けている。

 懸物押書とは、懸物状ともいって自己の所領を賭けてまで正当性を主張する手段である。

 これは、当時の御家人が所領の領有権をめぐって紛争を頻発させ、幕府はその裁決に腐心し、問注所を設置したり、式目を定めたりして解決を図ってきたが、まだ十分でなかったことを示しており、また一面、御家人にとり所領問題はまさに「一所懸命」のことであり、そのためその総てを賭けてまで訴論対決する風潮が生じたのである。幕府は仁治二年(一二四一)評議の上、懸物状に関する規定を定めているが、おそらく当時そうした訴訟法が頻繁に行われていたためであったろう。

 〔矢古宇氏〕 矢古宇郷(草加・川口市)の地頭矢古宇氏は横山党の族で、『横山党系図』では同党の田ヶ谷忠兼の孫師義が、谷(矢)古宇に住し八国府五郎と称したのに初まるとされている。『尊卑分脈』では藤原秀郷四世の孫近藤脩行の五世の孫国平より出るともいう。

 一族の矢古宇兵衛次郎は、延応二年(一二四〇)二月に将軍頼経が上洛した際に供奉しており、また前述の康元元年には奥大道の盗賊取締りに矢古宇右衛門次郎が地頭として当っている。

 矢古宇郷は、幕府が鶴岡八幡宮に承久の乱の戦時祈願をした報賽に、承久三年(一二二一)八月、同社領として寄進されている。『吾妻鏡』には「鶴岡八幡宮御分、武蔵国矢古宇郷司職、五十余町」とあるので、同郷の五〇余町の郷司職を寄進したことがわかる。その関係もあってか、川口市新郷にある峰岡八幡神社は鶴岡八幡宮を勧請したとも伝え、同社には弘安五年(一二八二)造立の僧形八幡像が残っている。その胎内には造立願文や般若心経二巻を蔵しており、それらには清原光兼・重直・藤原宣盛・ふちはら女・さかのうへ・いねん・しゃうねん・さう忍・ふちはらのかうたい・さかのうへのせんねん・きやうしん・平王寿・こやま五郎・源氏女・平朝臣昌泰・源氏等の名が見られる。この清原・藤原・坂上・小山・源等の姓は由諸ある姓として、また朝臣を称する者もあるので、在地の人とも思われず、おそらく都の人士が信仰のため造立したものを、何らかの関係で当地へ将来したものではなかろうか。この点で矢古宇氏と関連づけるのはむずかしかろう。

峰岡八幡宮胎内文書

 〔春日部氏〕 春日部の名は開化天皇の春日宮、または雄略天皇皇女春日大娘の名代に由来するといわれ、古くはこの名代が春日部地域に置かれて地名となったといわれる。春日部氏は鎌倉期にこの地に勢威を張った豪族で在名を名乗ったものであろう。

 同氏の活躍は『吾妻鏡』に載せられているが、早くは文治元年(一一八五)春日部兵衛尉が壇の浦の戦いに従っており、元久二年(一二〇五)正月の〓飯の際には次郎実平が馬一匹を献上している。宝治元年(一二四七)甲斐前司春日部実景の時、執権北条経時が将軍頼経を廃して頼嗣を立てたので、頼経を支持する三浦泰村が宝治元年(一二四七)鎌倉で反乱を起こし北条時頼に滅ぼされた事件が起った。この時、実景は三浦方に味方し子息の太郎左衛門尉広実、次郎兵衛尉実秀、三郎兵衛尉とともに討死した。乱後も幕府の追及がきびしく行なわれ、実景の赤子まで春日部で捕えられ、鎌倉に連れ去られた。嘉元二年(一三〇四)の六波羅探題下知状(欠文)には伊勢国の所領紛争の糺明使として春日部弥二郎入道の名が見えている。

 実景の孫重行は、元弘三年(一三三三)新田義貞が上野国に挙兵した時従い、鎌倉幕府攻めで軍功を挙げ、滝口左衛門尉となった。次いで建武二年(一三三五)足利尊氏が建武政権に反抗したおりは、南朝に従って奪戦し、翌三年三月二十二日春日部郷と上総国山辺南部の地頭職を安堵されている。同年八月三十日の綸旨(りんじ)に、同地頭職たる春日部判官重行の跡目を若法師己下に相違なく与えられている史料があるので、この間に重行は没したのであろう。また、一族の治部少輔時賢も南朝に属し、翌三年尊氏が九州から大軍をひきいて京都に攻めのぼった時、新田義貞、名和長年らと共に叡山坂本に退いた後醍醐天皇に供奉して大いに戦い、同年六月討死した。その後十月十日に至り後醍醐天皇が足利氏の請をいれて京都に還幸した時、家縄が天皇に供奉している。

 〔足立氏〕 足立氏は、鎌倉期の足立郡きっての豪族で、『尊卑分脈』では藤原北家魚名の流れとし、『足立氏系図』、『足立家系譜』は勧修寺家の出とし、遠兼が足立郡領となって足立郡に住み、その子遠元の時から足立氏を名乗ったと伝えている。『吾妻鏡』にも遠元が藤原を称していることをのせているので、藤原氏となんらかのつながりがあったと思われる。しかし、太田亮氏は、遠兼が足立郡領を務めており、遠元も源頼朝によって足立郡郷領掌を認められ郡司としての地位を保持していたことから、遠兼らを地方豪族出身者と考え、足立郡司判官代武蔵武芝の後裔としている。

 遠元は『平治物語』や『吾妻鏡』などによれば、平治の乱には源氏一七騎の一人として義朝に従い、右馬允に任ぜられ、待賢門の戦いに抜群の武勇を、続く六波羅攻めには戦乱の中で金子十郎家忠に太刀を与えた美談を残した。義朝没後、足立郡に帰って雌伏し、折々伊豆の頼朝を励ましたが、治承四年(一一八〇)に頼朝が平家討伐の軍をおこすと源氏の恩義に報いるために武蔵武士として最も早く従軍した。このため足立郡郷の領掌を従来通り許された。元暦元年(一一八四)八月、公文所設置と共に寄人となって、分国や家人を統治する行政事務を担当し、建久元年十一月、頼朝が大納言兼右大将に任ぜられた時には、頼朝に従って参内し、後白河法皇に拝謁を賜り、同年十二月、頼朝の推挙により勲功一〇人の一人として、左衛門尉に任ぜられた。頼朝の没後、幕府が北条時政を中心とする一三人の重臣による合議制を執行した時、遠元はその一人に選ばれ、幕政に重きをなした。その館址は桶川や大宮の殖田谷の「あたちとのの屋敷」と呼ばれた所にあったと言う。

 遠元の子の八郎元春は、頼家、実朝に仕えて左衛門尉となり、『足立系図』によれば元春の弟遠光の子遠政も同じく幕府に仕えて左衛門尉となった。彼は、勲功の賞によって丹波氷上郡佐治庄を賜わり、子孫はその地で栄えた。『吾妻鏡』には、足立太郎左衛門尉直元、同左衛門三郎元氏、同十郎太郎親成、同左衛門五郎遠時、同太郎、同三郎、同五郎、同九郎、同木工助遠延等の名も見られるが、おそらく一族の者であろう。

 〔下河辺氏〕 下河辺氏は将門の乱の時、乱の首魁平将門を討滅した藤原秀郷の後裔で、下野の豪族小山氏や太田氏と同族である。太田四郎行光の子の行義が、下総国にあった八条院領下河辺庄に住み、下河辺藤三郎と号した。この行義は源三位頼政に仕え、平治の乱にも活躍したが、治承四年(一一八〇)頼政が以仁王を奉じて反平氏の軍を挙げるとこれに参加し、頼政が宇治に敗死した後は下河辺に帰った。

 その子行平ははじめ平氏に従ったがつとに頼朝に心を寄せ、頼政が挙兵するや伊豆北条館の源頼朝にその旨を通報した。頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房に逃れて再起を図った時、行平は招かれてその陣営に投じ、十月頼朝より下河辺庄司を安堵された。以後佐竹討伐、志田合戦、平氏追討、奥州征伐に軍功を挙げた。特に養和元年(一一八一)下野にいた頼朝の叔父の志田義広が頼朝を攻めようとして小山朝政等と戦った時、その残党を古河・高野の渡しで攻め潰滅させたり、頼朝暗殺を企てた左中太常澄を捕えるなど頼朝股肱の臣として活躍した。文治元年(一一八五)平家追討の功により一時播磨守護に補された。一面友情に厚く畠山重忠が梶原景時のざん言で蟄居した時、重忠を弁護して無事に鎌倉に出仕させた。また弓術の達人でしばしば幕府の御弓始や鶴岡八幡宮の流謫馬の射手を勤め、頼朝に請われて頼家の弓術の師ともなった。建久三年(一一九二)重臣一一人と共に万寿君(実朝)の将来を託され、同六年十一月には、子孫が長く源家の門葉に准ずべき旨を許されている。

 弟四郎政義も兄行平と共に頼朝に従い活躍したが、河越重頼の聟であったため、文治元年十一月岳父重頼が源義経の縁者として処罰された時に連座して所領を没収された。しかしまもなく許され頼朝のもとに伺候している。

 行平の孫行時は幸嶋四郎を号して、承久の乱には同族の小山新左衛門尉朝長と共に北条泰時の軍に加わり泰時を感激させたが、宇治川の戦いで、安保実光と同じ所で水死した。その子行光も将軍頼経に仕え弓の名手として著名であった。このほか『吾妻鏡』には六郎光脩、藤三、左衛門次郎宗光、太郎行秀、左衛門三郎等の名をのせているが、みなその一族であろう。なお行平の居館は北葛飾郡庄和町河辺に、行光の館は同郡松伏町松伏領にあったと伝えるが明らかでない。