承久の乱後、幕府は執権泰時のもとに武家政権を確立させ、その基盤となった武蔵は承久元年(一二一九)以来泰時が武蔵守となってその経営に当っていた。乱後幕府は戦勝祈願の報賽として綾瀬川沿岸の矢古宇郷を鶴岡八幡宮に寄進し、市域近傍に鶴岡社領が設置されたのである
貞応三年(一二二四)執権義時の死去により執権職を継いだ嫡子泰時は、第二の牧氏事件ともいわれる義時の後室伊賀氏の陰謀を未然に防ぎ、この苦い体験から北条氏の家督(得宗)の地位と一門とを明確に区別するため、得宗の家政執行機関として公文所を創設し、尾藤景綱を家令に任じて家務を執行させた。この結果、武蔵の経営は公文所を通して行われ、同時に得宗専制もここから始まったのである。翌嘉禄二年、尼将軍政子が死に、続いて幕府創業の功臣大江広元が死去すると、泰時は縦横に活躍する機会を得て、ここに、幕府本来の性質を明確にするため、当時の武士の一般理念とされた〝道理〟の定立と実践をめざした。
まず道理の実践として合議制の確立を図り、この年十二月一一人の評定衆を任命して訴訟に出仕させ、執権・連署と共に評議に当らせた。この時武蔵出身の中条家長や三浦義村が挙用されているが、これは御家人長老である彼等の口から武士の日常的声を聞こうとする配慮に外ならなかった。次いで建長元年(一二四九)には引付衆が新設され、引付頭人は評定衆が兼ねることとなった。一方道理の定立は「御成敗式目」(貞永式目)の制定に見られ、その背景には承久の乱後激増した所領相論に対し、公平な裁断を求めた御家人達の要求が基礎となっていた。そのため裁判上の基準となる重要法規の成文化が必要となり、貞永元年(一二三二)八月五一ヵ条の式目が制定された。
泰時の武蔵支配で注目すべきは嘉禄二年(一二二六)の武蔵国留守所総検校職の設置で、幕政確立に狂奔していた泰時が、自己の国務執行補助機関としてそれを設置したのであった。浦和市三室の氷川女体社に泰時奉献と伝える兵庫鎖太刀が伝来しており、柄や鞘には北条家の家紋である三鱗紋が刻まれているが、これは泰時の国務執行の様子を具体的に示すものであろう。暦仁元年(一二三八)四月泰時が武蔵守を辞して以降、武蔵守は必ずしも得宗家に限らず、また名目形骸化して国務執行の実権は得宗家に掌握されていった。参考までに泰時以後の武蔵守補任者と得宗の系譜を示すと次の通りであった。
○(武蔵守)括弧は補任年
北条泰時(承久元年・一二一九)―大仏朝直(暦仁元年・一二三八)―北条経時(寛元元年・一二四三)―大仏朝直(寛元四年・一二四六)―北条長時(康元元年・一二五六)―大仏宣時(文永四年・一二六七)―塩田義政(文永十年・一二七三)―北条宗政(建治三年・一二七七)―北条時村(弘安五年一二・八二)―赤橋久時(嘉元二年・一三〇四)―北条熙時(徳治二年・一三〇七)―金沢貞顕(正和元年・一三一二)―赤橋守時(元応元年・一三一九)―金沢貞将(嘉暦元年・一三二六)
○(得宗)括弧は執権補任年・数字は代数
[3(挿入)]北条泰時(貞応三年・一二二四)―[4(挿入)]経時(仁治三年・一二四二)―[5(挿入)]時頼(寛元四年・一二四六)―[8(挿入)]時宗(文永五年・一二六八)―[9(挿入)]貞時(弘安七年・一二八四)―[14(挿入)]高時(正和五年・一三一六)
泰時の死後、右に示したように執権は孫の経時を経てその弟の時頼の手に移ったが、その直後の寛元四年五月、前将軍頼経を擁して執権の地位を窺った名越光時一派の策動が表面化した。よって時頼は機先を制して名越一族を追放した。そしてその翌年の宝治元年(一二四七)には、頼朝挙兵以来の豪族三浦氏を挑発して滅した(宝治の乱)。この時得宗家に従っていた武蔵の中小御家人や、相模・駿河・伊豆以下の近国の御家人が多数参陣して、北条氏と肩を並べていた名族を攻撃している。時頼はこの二つの条件の克服を通じて得宗家の専制体制を開いたのである。
時頼の没後、執権と武蔵の国務執行は子の時宗が継承し、文永・弘安の二大役を契機として得宗の専制は一層強化された。次いでその子貞時が執権になると文永・弘安両役による社会的動揺を背景として得宗家に仕える御内人の代表平頼綱と、御家人の代表安達泰盛が衝突し、泰盛側の敗北に終った。この時武蔵・上野等の御家人は泰盛側に味方し、五〇〇余人が討たれたと伝え、武蔵の御家人体制は大きな打撃を蒙った。この結果幕府権力は貞時に集中し、連署・評定衆も単なる名目職と化し、御家人層は疎外されて、幕政の実権は得宗被官(御内衆)の手に移った。そして文永・弘安両役後の経済的困窮は御家人層の分解を促し、加えて執権政治の行詰りが御家人層の討幕気運の醸成に拍車をかけていったのである。