下総国下河辺庄は、下総国葛飾郡から武蔵国東部にかけて設置された庄園で、平安末から鎌倉初頭にかけて鳥羽天皇第三皇女八条院の荘園であった。荘内には前林・河妻・赤岩・春日部・桜井の五郷及び平野村等が含まれていて、越谷周辺の荘園としては規模も大きく注目すべき庄園であった。
ここは平安末以来下総西部の豪族、下河辺氏が庄司を務め、治承四年(一一八〇)頼朝が武総地域を掌握した時、下河辺行平が勲功の賞としてもとの如く庄司職を安堵された。文治二年(一一八六)武蔵・下総等九ヵ国が頼朝の知行国となった時、頼朝は知行国内の乃貢(年貢)未済の庄々から注文を徴し、年貢進済の催促を行った注進状に「八条院御領武蔵国」とあり、また文治四年地頭沙汰に関する朝廷の返書に、公家所領の年貢未済地の一つとして武蔵太田庄と共に下河辺庄が八条院領にあげられているので、頼朝の知行国となった後も、八条院がそのまま本所となっていたことがわかる。下地管理は前同様下河辺行平が当っていた。ところが後に領有権は下河辺氏から金沢氏へと移ったのである。金沢氏の下河辺庄支配は、越谷の中世にとってきわめて興味深いことであるが、これについては称名寺文書を仔細に検討された舟越康寿氏の労作(「金沢称名寺々領の研究」(上・下)―中世中級寺社領の一典型―『横浜市立大学紀要』No.9・10)に詳しいので、以下同氏の業蹟を参照して紹介すると次のとおりであった。
金沢氏(かねざわうじ)は北条氏の一族で、幕府第二代執権の北条義時の子で、武蔵国六浦庄を領していた実義(のち実泰)の子孫が、居住地金沢を氏名に称したことによる。『金沢氏系図』では実泰が金沢を氏としたとあり、『北条系図』にはその子実時の条に「称名寺殿」または「金沢侍所」とあるが、金沢文庫所蔵文書の「貞顕自筆状断簡」から判断して貞顕の時より金沢氏を称したと考えられる。貞顕の時は金沢氏の隆盛時代で六波羅探題、連署を歴任、一時高時に代り執権となり、武蔵守にもなった。その子貞将も武蔵守に就任している。略系を示すと次のとおりである。
金沢氏と下河辺庄との関係を示す最も古い史料は、次の文永十二年(一二七五)四月の実時譲状である。
信濃国大田荘大倉・石村両郷、下総国下河辺荘前林・河妻両郷並びに平野村
右件の所々、藤原氏に譲与する所なり、但し下河辺郷村等に於いては一期の後、総領に付すべきの状 件の如し
文永十二年四月廿七日 越後守 平(実時)
右によれば、下河辺庄はこの時金沢氏の所領となっていて、実時が荘内の前林・河妻両郷(茨城県猿島郡総和町・五霞村)及び平野村(北葛飾郡幸手町平野カ)を、信濃国大田庄大石・石村両郷と共に藤原氏に譲り、下河辺庄の諸郷村については藤原氏死去後は総領に付すべしとあるから、その地頭職もしくは領家職は実時直系の当主に引継がれたことがわかる。遺領を譲渡された藤原氏とは、実時の先妻の安達(藤姓の出)景盛の女(実村・篤時の母)といわれている。
下河辺庄内で前林・河妻両郷及び平野村に次いで見られる村々は「下河辺御庄下方内称名寺寺領村々」と称せられたもので、永仁元年(一二九三)の「実検目録」に見える。これによるとそれらの村々は称名寺領となっているが、下河辺庄は本来金沢氏領であるから、永仁元年以前に金沢氏から称名寺へ寄進されたものであろう。この文書の内容は領家代官による年貢の書上で、村内の現作田数は三五町四反小四〇歩、このうち除田となる小沙汰免(寺領沙汰人に対する給田)一反三〇〇歩を除き、定田は御佃三町五反九〇歩、所当田三一町七反小一〇歩となっていて、佃は所当田の約一〇分の一となっている。年貢所当額は段別四斗宛、計一五五石六斗五升三合三勺で米納だったことを示している。この地を次の三人の名主がもっていた。
鳥子兵衛三郎跡 二四町八反三〇歩
上野蔵人二郎跡 八町三反半二〇歩
片山入道跡 二町二反大五〇歩
三人はいずれも「何某跡」とあるから初給主の子孫と見られ、初給主は名前から察して金沢氏の家人だったのであろう。彼等はそれぞれ村単位で耕地を保有していたと思われ、その村々は永享十一年(一四三九)「上総国赤岩三箇村年貢米結解状」によると、後述の赤岩郷三ヵ村をさすと思われる。これに文安二年(一四四五)「上総国赤岩十四箇村年貢銭勘定状」によると、別に一四ヵ村あったことが明らかなので、赤岩郷は全体で一七ヵ村から成っていた。そのうち前記の三ヵ村が永仁元年以前に称名寺領として寄進されたことになる。この三ヵ村とは応長元年(一三一一)「内河二郎太郎やすとう利銭借券」、貞和四年(一三四八)「赤岩外河年貢送状」から内河・外河上・下河下の三ヵ村とされている。この赤岩郷は、北葛飾郡松伏町の古利根川と庄内古川にそった地域で、武州文書(天正十六年簗田助縄文書)によると、戦国期に赤岩新宿と呼ばれた宿駅ができており、市もたてられていた殷賑の地と伝えている。