新方郷

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金沢氏が下総国下河辺庄内に持っていた所領は、前述の前林・河妻両郷及び平野村と、赤岩郷一七ヵ村、それに下河辺庄其他六郷(新方・野方・佐々尾・志摩・大野・築地)といわれている。このうち越谷と関係の深い新方郷が、金沢称名寺文書に初めて見えるのは、嘉元三年(一三〇五)「金沢瀬戸橋造営棟別銭注文案」である。これは貞顕の時、金沢瀬戸橋造営のためその費用を棟別銭として一門の所領に割当てた時の注文で、それには「河辺新方分、佰拾六貫伍百捌(卅貫未地)拾六文、『(朱)百貫八百文』此内八百(文脱カ)上粮料」と見え、新方郷が金沢氏一門の所領となっていたことを示しており、また、「称名寺々用配分状」(年代未詳)によると、「河辺新方」は当主貞顕、金沢殿、入殿、山本殿によって分領されていた。金沢殿以下については、舟越氏は「貞顕に極めて近い女性で、金沢、山本、入という村に各々居住したので、かくよばれたのではあるまいか」と述べ、貞顕近親の女性であるとしている。

 次いで新方郷について触れているのは嘉暦元年(一三二六)の「下総国新方検見帳」で、市域の恩間の地名が出てくることと、当時の荘地構造をよく示している点で貴重な史料である。煩をいとわず紹介すると次のとおりである。

   (端裏書)「新方検見帳嘉暦元年」          六反大       ちう大(太)郎(已下同ジ)

  にいかた(新方)のけんみちやう(検見帳) 十丁めん分おまの分 九反九十分     又大郎

      合                      三反小       五郎四郎

  四反卅分      まこ二郎             三反半       まこ三郎

  四反六十分     しよう三郎            八反三十分     大夫六郎

  五反        へい二郎             □反小       せんけう

  四反六十分     いやとうし            □反七十分     にうゑん

  五反        くゑさう三郎           四反三百分     二郎大郎

    已上四丁 分米八石                □□九十分     いや大郎

     合二丁二反小卅分 一丁六[七(挿入)][〻(挿入)]反半卅分そん 三石五斗一升六合 二反三百卅分    ゆいくわん

                             □反七十五分    いや三郎

      分米四石四[五(挿入)][〻(挿入)]斗二[一(挿入)][〻(挿入)]升五合 □反大卅分     大夫大郎

     おまの分                    四反        六郎二郎

  七反        大夫五郎             四反十分      まこ大郎

     合 八丁四反小十五分 とくてん         □□分八丁一反十五分 十六石二斗四升一合 そん

       以上 分米 十六石九斗六升二合         かりやくくわん年十月三日

     そんの分田 六丁三反 そん十二石七斗□升五合小四十五分                   へい大郎 (花押)

    已上十四丁七反三百分 分米廿九石五斗七升七合                  ちやくわう(花押)

  ちやうの米 合 二十一石四斗九[七(挿入)][〻(挿入)]升七合

 右によると新方郷は十丁めん(十丁免)とおま(恩間)の二つの小村より構成されていた。ここには赤岩郷三ヵ村に見られた佃や除田は存在せず、散田もなく山野についても明かでない。十丁めんの場合を見ると所当田畑は四反三〇分から五反とほぼ均一に五人の名主に配分されている。これに対しおまは不均一で最高が九反九〇分、最低が二反三三〇分、その間八反余・七反・六反・四反・三反台と区々で名主も一五名である。両村とも小農経営の多いのが目立つ。年貢の斗代は、田積と分米から二斗代とわかり、十丁めんとおまの合計田積は一八丁七反三分、年貢高は三七石七斗一升であったが、この年は損田が八丁一反一五歩に達し、実際の得田収入は二一石四斗七升七合であった。このほかに雑公事として糠・藁・薦、その他を納入した。作物は「教智房田畑注文」(元徳三年)によると、種籾は早稲と中稲を蒔き、屋敷には芋や豆を作っていた。

 正慶元年(一三三二)二月に至って下河辺庄赤岩郷の村々は、貞将の手により信濃国石村郷・武蔵国六浦庄富田郷と共に称名寺へ不輸の地として寄進された。時恰かも世情不安の時で、遂には元弘の乱が起り、鎌倉幕府や北条氏の命運も旦夕に追っていた時であった。この時、貞将が寄進した土地の外、父祖三代にわたる寄進地も寺家の管理とした。こうして赤岩郷の地は、総て称名寺領となったのであるが、新方郷も貞治二年(一三六三)の「称名寺々領年貢米納帳」にその名が見えるので、赤岩郷と相前後した時期に称名寺領として寄進されたものと思われる。