足利尊氏と法華寺文書

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元弘三年(一三三三)四月、足利高氏は丹波国桑田郡で鎌倉幕府に背き、五月七日には六波羅探題を滅亡させた。翌八日、上野国の新田義貞も高氏の長子永寿王(のち義詮)を擁して挙兵、分倍河原で幕府軍を破り、二十二日には鎌倉を攻撃して幕府を滅ぼした。

 これよりさき、配流地の隠岐を脱出、入京していた後醍醐天皇は、八月諸将の論功行賞を行い、高氏は天皇の諱(いみな)尊治の一字を与えられて尊氏と改名し、武蔵守に任ぜられた。十月までには記録所・武者所・雑訴決断所が設置され、建武政権は実質的に発足をした。

 同年十二月十二日、岩槻の法華寺は、当知行地(現在知行している土地)を安堵する後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を得た(「法華寺文書」)。法華寺は岩槻市飯塚にある臨済宗の古刹で、鎌倉円覚寺の末で、この綸旨をはじめてとして江戸時代初期までの九通の文書を現在に伝えている。翌建武元年(一三三四)二月六日、尊氏は上杉重能に命じて、大河原又三郎の「濫妨(らんぼう)」を停止し、綸旨の通り法華寺領を同寺の住持是徹に交付した。鎌倉幕府滅亡の混乱に紛れて、在地武士の寺領侵害などが起ったのであろう。武蔵守としての尊氏の行動は、既に前年十二月二十日、上杉重能に命じて武蔵国木田見郷(東京都世田谷区喜多見)の訴訟を措置させているが、法華寺の紛争処理はそれにつぐものである。

 その後、尊氏と前年十二月成良(なりなが)親王を奉じて鎌倉に下向していた尊氏の弟直義(ただよし)とは、武蔵各地の寺領や、有力在地武士の所領を安堵して武蔵の掌握につとめたが、状勢は必ずしも安定したものではなかった。建武二年七月、北条高時の遺子時行が信濃の諏訪頼重らにかつがれて蜂起すると、武蔵の多くの武士もこれに応じ、直義の守る鎌倉を陥落させた。京都にあった尊氏は、後醍醐天皇の勅許のないまま東海道を下り、三河で敗走して来た直義と合流して八月には鎌倉を回復した(中先代の乱)。十月、尊氏は鎌倉で新政権に叛旗をひるがえし、宿願の足利政権への第一歩を踏み出した。

後醍醐天皇綸旨(法華寺文書)