建武三年十一月、尊氏は建武式目を定めて幕府を開き、二年後には自己の擁立した光明天皇から念願の征夷大将軍に任ぜられた。しかし、建武三年十二月に後醍醐天皇は吉野へ逃れ、正統な天皇であることを主張し続け、ここに南北朝の動乱が始まる。全国の武士は、南北朝いずれかを称し、六〇余年に渡って激しい争いをくり広げた。
そもそも、尊氏・義貞の挙兵以来、武蔵武士は、それぞれ敵味方となり、或いは一族が分裂して争った。六波羅探題の北条仲時は、近江国番場の金蓮寺で自害したが、同寺過去帳によれば、仲時に従ったものの中に、川越参河入道乗誓をはじめ、糟屋、豊島、足立氏など多数の武蔵武士の名がみえる。また中先代の乱に際しては、武蔵の名族安(阿)保(あぼ)氏は、光泰が足利方として遠江の橋本で勲功を挙げ、一族の家督安保道潭(幕府滅亡の際討死)の遺領を授けられたのに対して、道潭の遺子は時行方に属して鎌倉で自殺した、と『梅松論』は伝えている。この橋本の戦について同書は「(安保光泰に)家督安保左衛門入道道潭が跡を領せしむ。是を見る輩、命を捨むことを忘れてぞいさみ戦ふ。」と述べている。
南北朝の正統性よりも、この所領の安堵・獲得への要求こそが、彼らを変転きわまりない戦いにつき動かした原動力であったろう。しかも、尊氏の執事高師直と直義との対立に端を発し、尊氏・直義兄弟の抗争へ発展した観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起ると、状勢はますます複雑なものとなった。観応元年(一三五〇)、尊氏に京を追われた直義は鎌倉に入り、高師直の子師冬を逐った上杉憲顕(うえすぎのりあき)(重能弟、山内上杉祖)と結んで尊氏に対抗した。この時、尊氏に応じた下野の宇都宮氏を討つべく直義の命を受けた武蔵国入間郡高麗(こま)郷(入間郡日高町)の武士高麗経澄(こまつねずみ)は、翌二年、薬師寺加賀権守入道と共に宇都宮氏に寝返り、逆に直義方を攻撃したことが、同氏の軍忠状などで知られる(『町田家文書』)。
また観応三年五月の高麗季澄(すえずみ)の軍忠状によれば同氏が、「八文字一揆」を結んで直義方を対戦したという。この時期の「一揆」とは南北朝内乱期に、中小国人層が外部から入って来た守護や、国内で伝統的権威をもつ豪族層の支配から自分達の所領を守り、同時に領内農民の抵抗を抑えるために、族縁的に結合したものである。関東では上州・武州にまたがった白旗一揆と、上州藤一揆とが名高い。彼等の党的一揆は、初めは戦闘に際して臨時的に組織されたものであったが、内乱の長期化により恒常的なものとなり、南北朝末から一世紀にかけては古い族縁的性格を脱して地縁的なまとまりを持つようになって、のちの関東管領の重要な軍事力を構成した。
族縁者を組織して戦場をかけめぐり、自己の所領を確保し拡大するためには裏切りも辞さない、これが内乱に生きる武蔵武士の姿であった。
尊氏は文和元年(一三五二)鎌倉で直義を毒殺し、観応の擾乱は幕を閉じた。上杉憲顕はその前年、信濃へ敗走していたから、武蔵は再び尊氏の手にもどった。しかし南北朝の動乱そのものは、この後も続いた。
この動乱は越谷市域の歴史にも何らかの影響を及ぼしたであろうが、それを史料的に確認することはできない。わずかに市内各地にこの時代の紀年銘を持つ板碑が残されているだけである。建武政権時代のものとしては、西方の金子氏稲荷神社に元弘三年十一月在銘の弥陀一尊板碑がある。また一三三六年(後醍醐の吉野脱走)から、一三九二年(南北朝合一)までを南北朝時代とすれば、この期に属する市内の板碑の残存数は二二基を数え、その前後の五、六〇年とくらべてかなり多い数を示している。紀年銘はいずれも北朝年号が使われている。