観応の擾乱が始まる前年の貞和五年(一三四九)尊氏は南軍に当るため上洛した義詮(よしあきら)にかえて、まだ一〇歳だった次子基氏を鎌倉府の主として鎌倉に下した。
室町幕府の一組織としての鎌倉府は、既に元弘三年五月、義詮が新田義貞と共に鎌倉入りした時点で実質的に成立していたといわれる。しかし、基氏が鎌倉に下向してはじめて、義詮・基氏それぞれの子孫が、室町幕府、鎌倉府の主帥となる道が開かれたのであり、そのため、基氏を初代の関東公方(鎌倉公方)と呼んでいる。
関東公方は京都の将軍の分身として鎌倉府にあって、関東八ヵ国に伊豆・甲斐を加えた十ヵ国にその権力を及ぼした。その勢力は時とともに強くなり、次第に幕府と対立するに至った。すでに早く、延文四年(一三五九)義詮が南朝方征伐のため関東の軍勢を催促した時に、世人は義詮・基氏間の不和を噂したので、執事畠山国清は基氏に、自ら率兵上京して義詮の疑いを解くことを説いて基氏もそれに同意した、と『太平記』は述べている。基氏以後も、二代鎌倉公方氏満は将軍義満に不満を持ち、これにとって替る野心を抱き、三代満兼もまた、大内義弘が義満に抗して堺で挙兵した応永の乱に際して、幕府救援と称して武蔵府中、下野国足利に出兵して義弘に呼応しようとしたが、義弘の敗死によって兵を引きあげた。この間、京都と鎌倉が本格的な衝突に至らなかったのは、関東公方を補佐した関東管領上杉氏の力に負うところが大きかった。
基氏は、観応の擾乱で直義方につき信濃に逃れたのち、一時は南朝方に属していた執事上杉憲顕を再び鎌倉に迎えた。貞治二年(一三六三)六月には、幕府に請うて憲顕を関東管領に任じ、併せて越後守護に復した。基氏が幼時、憲顕の手によって養育されたためである。以後上杉氏は関東管領職を歴任し、その勢力は大いに振った。同氏は一族の居館の所在地により、扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)・犬懸(いぬがけ)・詫間(たくま)・庁鼻和(こばなわ)の各上杉に分れた。
氏満の野望は、上杉憲春(憲顕子)の死を以ての諫言によって挫かれ、応永の乱に際しての満兼の行動は、上杉憲定(山内上杉)、朝宗(大懸上杉)の奔走によって幕府との間に事を構えずに済んだ。しかも、氏満の時代に陸奥・出羽二国が新たに鎌倉府の支配下に入り、満兼の代には関東に残存した南朝勢力をことごとく滅して、関東公方は名実ともに関東の主帥となった。
このように鎌倉府の勢力が絶頂期に達した時に、応永十六年(一四〇九)一〇歳で公方となったのが持氏であった。彼もまた成長するに従い、幕府と対立し、ついに両者は全面的に衝突するに至る。