永享の乱と結城合戦

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持氏が関東公方になると、それまで満兼の後見をして来た犬懸上杉朝宗は隠退し、山内上杉憲定が管領となった。応永十八年正月、憲定は管領職を辞し朝宗の子氏憲(禅秀)がこれに替った。禅秀は、亡父朝宗の威勢を誇って勢力を振い、憲定の子憲基と対立した。応永二十二年(一四一五)持氏が禅秀の家人越幡(おばた)六郎の所領を没収したのを機に禅秀は持氏と対立を深め管領職を辞した。このころ、京都で将軍義持の弟義嗣は兄に代って将軍になることを望み、鎌倉で不遇の禅秀とその叔父満隆を誘った。これにより禅秀は一族、縁者、持氏に不満の諸将を集めて応永二十三年十月、持氏・憲基を急襲してこれを破った。

 憲基は越後へ敗走し持氏は駿河へ逃れて幕府に救援を求めた。事態に驚いた幕府は、禅秀らが関東を征して幕府に抵抗することを恐れ、持氏に幕府の旗を授け、駿河の今川範忠、越後の上杉房方らに持氏支援を命じ関東の諸将もこれに従った。このため、禅秀は各地で敗れ、翌年正月十日一族と共に雪下で自殺して、禅秀の乱は終った。

 この乱後、持氏は禅秀にくみした関東の諸将を、たとえ中途から持氏に降った者まで含めて厳しく処断し、鎌倉公方としての確固たる地位を築こうとしてかえって孤立の道を歩みはじめた。

 幕府は、持氏が禅秀党の討伐戦を全く注進して来ないことに疑惑を抱く一方、禅秀遺児の憲顕・教朝を扶助して持氏の反感を買った。両者の対立は正長二年(一四二九)三月、義持の死によって弟義円が還俗して将軍義教となると頂点に達した。持氏は義持との約束により自ら将軍になることを望んで、義教の権威を認めず、永享と改元されても正長の年号を用い続けた。

 両者の対立は上杉憲実(憲基子)の努力により一時和解したが、永享十年(一四三八)持氏が嫡子賢王丸の元服に当り、将軍の諱を請う先例を破り義久と命名したことにより、持氏と憲実の対立が起り、憲実は鎌倉を去って本拠の上野白井城(北群馬郡子持村白井)へ帰ってしまった。怒った持氏は憲実を討とうとしたが、憲実も幕府へ事態を訴えたため、義教は上杉朝房をはじめ、関東・奥羽の諸将にも鎌倉攻撃を命じた。同年十月、憲実は持氏を破り、翌十一年二月持氏・義久父子は鎌倉永安寺で自刃した。この永享の乱により、四代続いた関東公方は実質的に滅亡し、関東の実権は漸次管領上杉氏の手に帰して行った。

 持氏の遺子春王丸・安王丸兄弟は下野日光に逃れ、永享十二年、下総の結城氏朝を頼って結城城に入った。これにより、持氏の厚遇を受けた宇都宮・小山・那須等、関東の有力諸将も結城城に馳せ参じ、信濃に逃れていた持氏の末子永寿王も同城に入ったから、その勢力は近隣を圧するに至った。

 義教は管領上杉清方、駿河守護今川範忠をはじめ東海、関東、甲斐、信濃、陸奥の諸軍に命じてこれを討たせた。持氏死後、子の清方に管領を譲って穏退していた憲実は、再び出て結城城攻撃の総指揮に当り、永享十二年七月二十九日より翌嘉吉元年(一四四一)四月十六日に至る激戦の後にこれを陥落させた。安王・春王は捕えられ、京へ送られる途中、美濃の垂井金蓮寺に至った時、義教の命によって誅滅された。