六ヵ村栄広山伝説

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永享の乱と結城合戦は、関東がその後長い動乱の時代へ突入する前触れであったと言えるが、越谷市域が当時どのような状態であったかを示す史料はない。わずかに市内大松の清浄院の縁起書『栄広山六箇村由緒著聞書』(市史(三)参照)の中に両合戦に関わる伝説が述べられている。しばらく、その伝説の語るところをみてみよう。

 結城合戦で、結城方として、奮戦、討死した下総国野木(栃木県下都賀郡野木町)の領主野木大炊介秀俊の妻は、一子松寿丸を抱き、乳母を伴って野木の屋形を逃れ、「下河辺、新方、春日部」を経て、兄の下総葛飾郡の大川戸左衛門太郎のもとに身を寄せた。義教の結城残党狩りは厳しく、大軍が大川戸に襲来する風説にも左衛門太郎は恐れず、一族の私市、清久、高柳の人々も本家救援のためにかけつけることになった。これを聞いた秀俊の妻は、大川戸一族に難が及ぶのを恐れ嘉吉元年正月二十一日の夜半、松寿丸と共に兄の館を抜け出し湖に身を投じて自殺し、乳母もあとを追った。三人の霊は三頭一尾の毒蛇となって湖辺を漂ったから、湖を訪れる人もなくなった。

 文安四年(一四四七)の三月、栄広山清浄院の住僧賢真上人は山門の東にある湖上の桜を楽しんでいた。その時、優艶な一人の女性が現われ、自分はこの湖中に住む大蛇で、愛する夫や子を死に追いやった義教をうらみ、冥中に訴えたところ、幸い赤松殿(赤松満祐)の怨念に便乗して義教を殺すことができた。しかし「王者尊貴」を殺した罪は逃れ難く身は毒蛇となって地獄から逃れることができない。願わくば我が徒のために念仏修行をなして救って欲しい、と切々と上人に訴えた。哀れに思った上人が七ヵ日大念仏修行を行うと、満願の夜、一山鳴動して湖は転じて岡となった。人々は上人の徳に感じてその地を蛇塚、開山塚と呼んだという。

 以上が『著聞書』の前半部分である。同書は、天正十八年(一五九〇)「武州用土主藤田新左衛門平信吉」の撰になると記しているが、嘉永四年(一八五一)、大杉村川上宗甫という人物の手になる写本である。

 毒蛇の説はもとより伝説であり、清浄院の地が古利根川に接し、川の乱流によって古来から沼地の多かったことから考え出されたものであろう。では、賢真上人についてはどうであろうか。『著聞書』は「人皇百二代新方地頭職向畑城主新方玄蕃允平頼基大檀那とし而、一山仏客僧坊造営する処開山賢真大和尚其性源氏兵庫頭三位頼政卿十七代武州太田主国名府源三郎紀綱一男ナリ」として太田氏の系譜に連なるものと述べている。

 また同寺に残る元禄八年(一六九五)の書上『清浄院開山并由緒』によれば、「開山賢真上人之儀」はその姓氏、経歴、寺の創立年代などは「深遠ニ御座候故聢(しか)と分明ニ相知レ不申候」とし、没年については嘉慶元年(一三八七)七月二十八日のこととしている。また江戸幕府の編さんした『新編武蔵風土記稿』には、「開山堅(ママ)真宝徳元年七月廿八日示寂す、当寺の東小許を隔て開山塚と云あり、そこより掘出せし古碑に嘉禄元年の文字見えたり、是起立の人の碑ならんと云」と述べている。この没年は、古くから塚上にあった「賢真上人」と刻んだ弥陀三尊板碑の紀年銘をそのまま賢真の没年として採用したものと思われている。以上を整理すると、

 (1) 嘉慶元年(一三八七) 賢真没(「開山并由緒」)

 (2) 応永二十一年(一四一四) 栄広山開基(「著聞書」)

 (3) 文安四年(一四四七) 開山塚出現(「同」)

 (4) 宝徳元年(一四四九) 賢真没(『新編武蔵風土記稿』、賢真上人板碑)

以上により、(1)を除けば、ほぼ時間的に辻つまは合うことになる。

 文安四年の出現という開山塚の実態究明と、「風土記稿」に記された嘉禄元年(一二二五)の枚碑の存在を解明するため、昭和四十九年四月二十九日から五月六日にかけて、越谷市教育委員会の手によって開山塚の発掘調査が行われた。その結果、墳丘のほぼ中央部の地山(じやま)(墳丘を築く前の地面)から約六〇センチメートルの所に黒色土層が確認され、その上に、歯四本、銅銭一枚、鉄クギが発掘された。出土遺物の鑑定の結果、歯はいずれも人間の永久歯(三本)と前歯であり、象牙質歯冠の咬耗度から、ほぼ三十歳台の人間のものである可能性が強い(東京大学理学部人類学教室埴原和郎教授鑑定)、銅銭は唐の「開元通宝」、クギはサビとともに木質部が附着していることから、木棺をとめたものと思われる、などのことが明らかとなった。また木棺であったと思われる黒色土層の分布と歯の位置から死者は頭を北向きにして埋葬されていたと推測される(『清浄院開山塚発掘調査概報』)。

大松清浄院開山塚

 これらのことから、開山塚に死者が葬られていたことだけは明らかになったが、それが賢真上人であったかどうかは全く不明であり、また嘉禄の板碑も発掘されなかった。むしろ歯の鑑定結果から推測された被葬者の年令は、前記の賢真上人の清浄院開基年代や没年についての伝承と明らかに矛盾するのである。しかし、この時期の史料がほとんど無い越谷市にとって開山塚は貴重な遺跡である点に変りはなく、また結城合戦にまつわる伝説も、越谷市域や松伏町の地が合戦の何らかの影響を受けたことの反映と見ればそれなりの意味をもつであろう。同じような遺跡が他地域で発掘調査され、開山塚の歴史的位置が明らかになる日を期侍したい。