永享の乱と結城合戦以後、関東は古河公方と両上杉の二大勢力に分かれた。しかし、両者が絶え間の無い抗争を各地でくり広げている間に、小田原城に拠った後北条氏は着々と武蔵へ浸透し、上杉氏にかわって武蔵各地をその翼下に収めていった。その中にあって岩付城にあった太田氏は、越後の上杉謙信や房総の里見氏と呼応してよく後北条氏に対抗した。「越谷」は、この岩付太田氏と後北条氏の対立抗争の中で、ようやく歴史の中にその名を登場させる。
嘉吉元年(一四四一)、将軍義教は、播摩守護赤松満祐に謀殺された(嘉吉の変)。そのため、春王・安王に遅れて美濃に着いた永寿王は死を免れ直ちに上洛を許されて美濃守護土岐持頼に預けられた。のちに越後の守護上杉房定は諸将と評議して永寿王を関東の主とすることを幕府に願い、関東の安定を望む幕府もこれを許した。宝徳元年(一四四九)九月鎌倉に入った永寿王は十一月には元服して将軍(義成のち義政)の諱を与えられて成氏(しげうじ)と称した。この時、上杉憲実は既に隠退し、子の憲忠が管領職を継いでいたが、成氏は里見義実、結城成朝など亡父持氏に仕えたものの子を用い、彼らもまた安房・結城を根拠地として近郷を侵し始めた。
これにより、かつて里見氏・結城氏を敵とした山内上杉・扇谷上杉の家宰長尾景仲と太田資清は、不安を感じ先手を打って宝徳二年四月二十一日に成氏を襲った。成氏は辛じて江の島に逃れ状勢次第では房総へ渡る動きを示したが、千葉・小田・宇都宮氏ら、成氏輩下が、長尾・太田軍を由井ヶ浜に撃破し、また憲実の弟道悦が成氏の下へ参じて憲忠には叛意の無いことを説いたから和議が成立し、成氏は再び鎌倉に帰った。
しかし、この事件により成氏と上杉氏の対立は決定的となり、五年後の享徳三年(一四五四)、成氏は結城・里見氏らに鎌倉の憲忠を襲わせ、これを殺した。次で成氏は翌年、上野白井城に拠る長尾景仲を武蔵分倍河原に破り常陸国小栗に逐った。
この事態に幕府は再び上杉氏を援け成氏を討って関東の安定を図ろうとした。同年六月幕命を受けた駿河守護今川範忠は、東海道の諸勢を率いて鎌倉を攻め、成氏を下総古河(現古河市鴻巣)に逐った。以後、成氏とその子孫を古河公方と呼ぶ。『鎌倉大草紙』によると、成氏はこのとき「関宿の城に簗田(やなだ)を籠(こめ)、野田城に野田右馬助を籠置」いて下総・東武蔵方面を抑えた。簗田(やなだ)氏は下野国梁田郷(栃木県足利市)に伊勢二宮領とし平安期から置かれた梁田御厨(みくりや)から興った氏族で、歴代鎌倉公方の世臣として仕えた。
野田氏も梁田郷野田から興った簗田氏族で、代々右馬助を名乗って鎌倉公方に仕え、下総国野田は同氏に所領として与えられたことから起った地名ではないかと考えられている。
『鎌倉大草紙』には、永享の乱に持氏方として討死した者の中に簗田河内守の名が見え、結城合戦では結城方で簗田出羽三郎なる者が討死している。成氏が鎌倉公方となると結城氏と並んでその「出頭の臣」となり成氏の古河移行によって関宿城を与えられ、古河公方重臣として上杉氏に対した。享徳四年成氏が幕府軍と戦った時に簗田河内守が奮戦し、康正元年には簗田出羽守が千葉氏を市川城に囲み、翌年河内守は「関宿より打て出武州足立郡過半押領し市川の城を取」ったという。千葉氏は頼朝に仕えた千葉介常胤以来の両総の雄族であったが、この頃一族分立の傾向が甚しく、本宗家の胤直は成氏党として各地に転戦する間、その重臣原氏と円城寺氏とが対立し、それぞれ成氏党・上杉党に分裂すると、胤直は円城寺と結んで成氏に背くという有様であった。
この動きを見た胤直の叔父で成氏方の馬加(まくわり)康胤は康正元年、原氏と共に胤直・胤宣父子を襲いこれを滅して「千葉介」の称を奪った。しかし上杉氏は胤直の弟の子実胤・自胤兄弟を市川城に置いて千葉氏を再興させた。伝統的権威を誇る千葉家はこうして古河公方と両上杉の対立にまきこまれて二分し、家臣の自立化もあって衰退して行く。
千葉氏の流れをくむ東常縁(とうのつねより)は当時京都にあって古今伝授で名高い歌人であったが宗家の分裂を聞いて将軍義政の許しを得、下総東荘(香取郡東庄町など)に下向、市川城の実胤兄弟を助け康正二年十一月には康胤を敗死させ、両総を征圧する勢いを示した。簗田氏の市川城攻撃はこのような事態に対し、下総での成氏党の回復のためなされたのである。敗れた実胤は武蔵石浜城(東京都台東区)に逃れ、のち出家、自胤は赤塚城(東京都豊島区)に拠って兄の出家後千葉介を継承した。これを武蔵千葉氏と呼び、のち小田原北条氏に属する。
こうして古河にあった成氏は、関宿、野田両城を軸として市川城、上杉房顕のいた武州騎西城をも手中に収め、小山、結城氏らに常陸、下野方面をおさえさせて上杉氏に対する防衛線を確立した。簗田氏も野田氏も直接的に越谷市域と関連を持ったことを示す史料は現在までのところ見当らない。簗田氏は、水海(みずみ)村(猿島郡境町)三嶋社の文亀三年(一五〇三)八月鰐口銘に「大旦那平右京助(ママ)正助」として簗田政助の名が現われている。関宿北部の水海は古くから簗田氏の支配地だったことが知られる。また『葛西志』には年不詳十一月五日付金子左京亮宛の政助書状が収められている。「興禅寺領武州平沼郷(北葛飾郡吉川町)」を他の侵害から守るように命じたものである。後に簗田氏は元亀・天正頃吉川の戸張氏にあて六通の文書を残しているが、この地の支配が文亀頃まで朔ることを示している。『下総旧事考』では成氏によって関宿城に入れられたのはこの政助の祖父河内守満助であるとしている。満助は関宿に近い五霞村にある曹洞宗の古刹山王山東昌寺の創建者として伝えられている(同寺梁田系図、但し同系図は満助を政助父とする)。同寺の梵鐘銘には願主として簗田河内守持助の名が見え、『下総旧事考』は持助を政助の父としている。
政助の兄を成助と言い、この父子三人はそれぞれ関東(古河)公方持氏―成氏―政氏の偏諱を受けた名であり、政助以後の高助―晴助も同様に古河公方高基―晴氏の諱を受けている。かくして簗田氏は戦国期、古河公方の家宰としての地位にのし上がり、関宿・水海とその周辺猿島郡一帯の地を支配し、その力は越谷と接する平沼郷・吉川宿の地にまで及んでいた。
一方、野田氏は、「鎌倉大草紙」に結城合戦で討死した者の中に「野田遠江守家人鳩井隼人佐」の名を伝えている。鳩井氏は鳩谷氏に同じで、足立郡鳩谷郷(鳩ヶ谷市)出身で在名を氏とした土豪である。遠江守は結城方として討死しているから野田右馬助と同族であると思われるが、両者の関係は明かではない。いずれにせよ、当時の越谷市域は、古河公方足利成氏が構築した反上杉防衛線に接する地域ではあったが、その重臣簗田氏や野田氏との直接な関わりを明かにすることは現在のところできない。
一方、これに対して上杉方では武蔵各地に築城をして、成氏方への防衛線をつくることに努力をした。すなわち、長禄元年(一四五七)に扇谷上杉持朝は家宰太田資清とその子の資長(道灌)に命じて岩付城、川越城を、また資長に江戸城を築かせたと伝えられる。
以後、連年両勢力は武蔵各地で衝突をくり返した。『鎌倉大草紙』は、この頃の状況を、「関東八州所々にて合戦止(やむ)時なく、をのづから修羅道の岐と成、人民耕作をいとなむ事あたはず、飢饉して餓死にをよぶもの数をしらず。」と述べている。
幕府はまた成氏にかわるべき鎌倉公方として、将軍義政の弟政知を左馬頭に任じて関東に下向させたが、政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越に留まった(堀越公方)から、関東の動乱はますます複雑で激しいものとなった。