道灌と岩付築城

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長禄元年の上杉持朝の岩付築城については、『鎌倉大草紙』・『小田原記』は太田資清に命じて築城させたとし、『関八州古戦録』は太田資長(道灌)に行なわせたとしている。河越城も岩付城もともに資清が築城したのであろうが、江戸城を築いた道灌が縄張り=築城の名人として後世有名になったため、両城の築城も道灌に帰せられたのであろうと考えられている。

 岩付城は、現在の岩槻市太田にその跡を残しているが、台地を利用した平山城で、東部は元荒川の流れを天然の外堀として利用し、西側は高さ二~三メートルの土塁(現在ほとんど残されていない)が城下町を囲んでめぐらされていた。周囲の延長八キロメートル、城内面積六九、三〇〇平方メートルに及ぶが、築城当時の姿は、築城後、道灌の手が加えられたにしてもはるかに小規模なものであったろう。『鎌倉大草紙』などから知られる成氏方の諸将の配置からすれば、岩付城は上杉方の最前線基地の位置にあったと思われる。「足利御内書案」によれば、長禄三年(一四五九)十月、上杉房顕(憲実の子)は成氏と太田庄で戦い上杉教房等敗死、寛正六年(一四六五)十二月にも太田口に出張した成氏を討つため幕府は今川義忠、武田信昌の発向を督促している。またこれよりさき、享徳五(康正二)年(一四五六)二月、成氏は太田庄鷲宮大明神(鷲宮町鷲宮神社)に、凶徒退治を祈願し、成就の暁には足立・埼西両郡の段銭で社殿の修造を行うという願文を出している(「鷲宮神社文書」)。

岩付城跡

 太田庄は、南埼玉郡北部から北埼玉郡を含む広大な地域であったと思われるが、ここを中心に、古河公方と上杉氏の激突がたびたびあったことが知られる。この時期に越谷地域がどのような状態にあったかは、明確な史料が存在しない。わずかに松山市箭弓(やきゅう)稲荷神社の縁起中に、寛正二年(一四六一)九月に「成氏と上杉方と越ヶ谷野に戦ひ成氏敗軍」という記載がある。しかしこの縁起は江戸時代も天保年間の作であり、確実な史料にはこのことが見えないから、歴史的な事実とすることはできない。しかし、前述した岩付築城前後の状況や二度にわたる太田荘での合戦を考え合せれば、成氏と上杉氏の対立の波が、越谷地域にも何らかの影響を及ぼさずにはおかなかったであろうと推測される。

 さて、成氏の古河敗走後、関東管領として成氏討滅の中心となっていた山内上杉房顕は文正元年(一四六六)二月、五十子(本庄市)で成氏と対陣中急病により没した。家宰の長尾昌賢は、房顕の子で越後にいた顕定を迎えて関東管領の地位にすえた。文明五年(一四七三)に昌賢が没すると、顕定はその弟忠景に跡を継がせたため、昌賢の子景春は強い不満を抱き、文明八年(一四七六)には鉢形城に入り、道灌が駿河今川氏の内紛を収めるため出張の留守をついて主家に叛旗をひるがえし、五十子在陣中の顕定を囲んだ。これにより、翌文明九年正月に上杉顕定、定正は上野へ退いた。すでに前年十月駿河から帰っていた道灌は、江戸城から出て、景春方の豊島泰明の平塚城、泰同経の石神井城を陥落させたのを始め、各所で景春を撃破して遂に鉢形城に追い返した。以後、道灌は景春と武蔵各地で戦うが、その状況は道灌が文明十二年(一四八〇)十一月に山内上杉氏の臣、高瀬民部少輔にあてた書状、いわゆる『道灌状』に詳しい。

 このような状況の中で、成氏は文明九年七月末、景春を援けて上野の滝(群馬郡滝川村)に出兵したため、道灌は顕定、定正と共に、白井城へ退いた。しかし翌文明十年(一四七八)正月には、景春支援の不利を感じた成氏は簗田持助を通じて景春に上杉と和睦するよう勧め、成氏と上杉の和解が成立した。正月二十四日扇谷定正は道灌を伴い河越城へ帰った。その後も景春とその与党は各地で抵抗したから、道灌は再び平塚城に拠った豊島泰経を攻め、小机城(武州橘樹郡)に敗走させた。豊島氏がこのように景春に味方をしたのは、同氏がもともと豊島、足立郡に勢力をもっていたのに対し、道灌が江戸城を築いたことでかなりの所領が削減されたため、太田氏に強い反感を抱いていたからだと言われる。

 豊島氏の小机敗走後、景春自身、蜂起して浅羽(現東松山市)へ打って出て小机の後詰をはかったが、三月には道灌に敗れて成氏の陣する成田(現行田市)へ逃れ、更に羽生に陣を取ったが、道灌が弟資忠を出兵させると一戦も交えずに成田へ逃げ帰った。その後、道灌は四月には小机城を陥落させ、相州に蜂起した景春党をも一掃し、七月には定正と共に鉢形と成田の間に出陣し、上州の顕定を迎えようとした。この時、成氏は簗田持助を介して元の和談を確認し、景春の行動に難儀している旨道灌に伝えたから、道灌は直ちに出陣して景春を退散させ、その隙に成氏は利根川を越えて同月十七日古河へ帰った。

 孤立した景春はその後秩父に入り、文明十二年(一四八〇)正月、児玉で蜂起し、越生にも兵を出したが、いずれも敗れ、六月には道灌に秩父の居城日野城(秩父郡荒川村日野)を攻められて遂に屈服した。文明八年から始まった「景春の乱」はここに終った。景春党を鎮圧し、上杉家の権威を保った最大の功績者は道灌であったが、この戦いの過程で彼と主家の扇谷上杉定正の間にしばしば確執があったことが『道灌状』から知られる。道灌の不満は、定正が道灌の言を用いず、道真・道灌父子を正当に評価しない所にあった。道灌に自己の軍功を誇るところが無かったとは言えないが、それにも増して定正は、この余りに強く有能な家臣に危惧の念を持っていたのであろう。文明十八年(一四八六)七月二十六日、相州糟谷の居館に道灌を招いた定正は、彼を謀殺した。

 道灌の活躍により圧倒された山内上杉顕定が一計を案じ、景春の誅滅と交換に道灌を殺すことを定正に迫ったためという。定正自身は曾我祐豊にあてた『上杉定正消息』の中で「道灌堅固に塁壁を成し、山内へ不義の企てをなした」ばかりか、定正の説得を聞き入れず、「謀乱を思い立つ」ありさまであったのでついに誅罰した、とその理由を述べている。道灌が殺されると顕定は高見原に出陣して定正に合力するかに見せたが、ほどなく兵を募って定正と敵対し、山内家の勢力挽回をはかった。定正の「謀略何事候」という憤激も時すでに遅く、両上杉氏はここに分裂した。