太田氏と後北条氏との対立

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道灌の暗殺とそれに続く山内・扇谷両上杉の分裂・抗争は、上杉家そのものの衰退と、その間をついての後北条氏の武蔵進出のきっかけとなった。

 まず、道灌が殺された翌長享元年(一四八七)、道灌の息源六郎資康は、父を殺した主家を見限り山内顕定に従った。道灌のいない扇谷家に不安を感じ、関東の多くの諸将も山内へ駆参じたという。これに対し定正は、山内打倒の名分を得るため古河公方へ使者を送り、道灌の誅滅と山内の敵対を伝え、言葉を尽して扇谷へ味方するよう説得した。この頃、成氏は隠居をして子の政氏が古河公方を継いでいたが、長年その地位を脅かして来た道灌がもはや無かったから、政氏は定正の側に立った。古河公方対両上杉の対立という図式は、ここに大きく転換した。

 両者は翌長享二年、二月相州実蒔原、六月武蔵菅谷原(比企郡菅谷)、十二月同高見原(比企郡小川町高見)でたて続けに衝突し激戦をくり返した。菅谷原の戦では、政氏の説得によって長尾景春も扇谷家に帰陣した。戦いはいずれも数の上では劣っていた定正側の勝利に終ったようであるが、決定的な決着をつけるまでには至らなかった。道灌と親交厚く、江戸城で彼と歌会を催したこともある僧万里集九は、この年八月に菅谷の北平沢に太田資康の軍営を訪れたが、菅谷原合戦では両軍に七百余の戦死者が出たと、その著『梅花無尽蔵』に記している。同書によれば、その後集九は鉢形、白井など山内方の諸城を経由して越後に至った。十一月には集九のもとに「関東三戦、管領顕定之凱歌」と伝える者があり、彼も「其実未だ知らず」としながらも、資康の勝利を喜んで詩を作っている。この年の合戦が、相当の激戦で、定正の勝利とは云うものの、扇谷家もかなりの打撃を受けたことが知られよう。その後も両者は各地で小ぜりあいを続け、その勢力を消粍していった。

 上杉氏が古河公方を交えて分裂と抗争を続けているあいだに、駿河の今川義忠の食客となっていた北条早雲は、延徳三年(一四九一)、伊豆堀越に政知の子茶々丸を殺して韮山に拠り、翌年には小田原の扇谷の臣大森氏を逐ってここを本拠とし、関東進出の機をうかがうに至った。小田原北条氏の登場である。しかも、同年太田資清、明応二年(一四九三)上杉定正、同六年(一四九七)足利成氏と、関東動乱の中心人物が相ついで没した。早雲の小田原占拠と成氏の死は、永享の乱後の関東の歴史が大きな転換期を迎えつつある象徴的事件であった。主役は次第に北条氏へ移って行く。

 永正元年(一五〇四)、定正の養子朝良は立河原(多摩郡)に顕定と対陣した。この時早雲は今川氏親と共に朝良の軍に加わり、初めて武蔵国に姿を現わした。この戦で朝良は顕定を破ったが、十月に氏親が鎌倉に帰陣すると再び顕定と戦い、敗れて河越城に退いた。顕定は攻撃の手をゆるめず、河越城を包囲したから、朝良はついに和を請うて江戸城に逃れた。これで、山内家は扇谷家を圧倒することができたが、その顕定も兄の上杉房能を自殺させた長尾為景を討つため永正四年(一五〇七)越後に出兵し、各地で為景方を破ったが、同七年六月には長森原で敗死してしまった。するとたちまち、長尾景春は再び山内家に叛いて北条早雲や、朝良の臣上田政盛と共に、為景に応じ、武蔵権現山に陣を張るというありさまであった。

 一方この頃、古河公方家でも政氏と子高基の対立が起り、両者の和睦が成ると、高基の弟義明が父とも兄とも対立して古河を出奔するということがあったから、北条氏の武蔵奪取の機会は近付きつつあった。

 永正十六年(一五一九)八八才の高齢で没した早雲を継いだ氏綱が、武蔵進出の最初の目標としたのは、江戸城であった。

 大永四年(一五二四)正月、江戸城の太田資高は、父についで主家扇谷朝興を裏切り、氏綱に内通した。朝興は品川高縄原で氏綱を迎え撃ったが、敗れて河越城へ逃れた。氏綱は道灌以来の名城江戸城を手に入れ、遠山四郎右衛門を城代としてここに置いた。氏綱は、その翌大永五年二月には、朝興の武将太田資頼の守る岩付城をも攻めこれを陥した。この合戦については、同年三月十日付、氏綱の長尾為景宛書状(上杉文書)に詳しい。それによれば、岩付の渋江三郎は大永四年以来、氏綱を頼り、しきりに岩付城攻略のことを願ったので、氏綱は二月四日江戸城を発ち、六日巳の刻(午前十時)から岩付攻めにかかり、申の刻(午後四時)には陥落させ、多くの敵を討ち取った、という。その後、氏綱は直ちに岩付城を渋江に与え、九日には江戸城に帰った。敗れた資頼は、足立郡石戸に逃れた(『新編武蔵風土記稿』)。

 渋江氏は、武蔵七党野与党渋江氏の末裔で道灌の岩付築城以前より現在の岩槻市渋江町を中心とする地域に勢力を張っていたが、道灌以後、太田氏に服従していたものと思われる。氏綱書状にある渋江三郎の「本意」とは、岩付城を奪って、自らがかつての岩付の支配権を取り戻すことであったろう。

 この時、岩付城主であった資頼は、道灌の第二子資家の子で美濃守、道可と名乗って父からその地位を引継いでいた。

 しかし、道真、道灌と続く太田氏と、岩付太田氏とは、先祖は同じでも系統は異るものと考えられている。もともと太田氏は、その系図によれば、丹波を本貫の地としていたが資国の時に相模に移った。彼は正和元年(一三一二)に没しているから、道真・道灌の頃には既に二〇〇年近くも経過している。従ってこの間、太田氏は当然数系統に分かれていたと思われ、道真・道灌の相州系が「源六郎」を名乗っているのに対し、岩付太田系が源五郎を名乗っているのは、その表れの一つである。岩付系太田がいかなる経過をたどって相州系と結びついたかは明らかではない。しかし、『太田資武状』によれば、道灌には実子がなく甥(太田系図では弟)の資忠を養子としたが、戦死したため、二度目の養子を迎えた。これが資家であったという。扇谷家宰として武相両国を鎮め、太田氏の全盛を築いた道灌の頃、岩付系太田は相州系に吸収されたのであろう。後世、文武両道に秀でた道灌の名が余りに喧伝され、全てのことが道灌と結びつけて権威づけられる風潮が生まれたため両系統の太田の異同もおおい隠されてしまったものと思われる。相州系太田の「源六郎」は、資康―資高―康資と江戸太田に引きつがれた。

〔太田氏系図〕

 岩付城を逐われた資頼は、同年三月二十三日付で越後の長尾為景に書状を送り、岩付落城後の武蔵の状勢を訴え、白井城の長尾景誠と申合せを行ない、為景の「越山」(関東への出馬のこと)を要請している(上杉文書)。同日付で上杉朝興も、ほぼ同様の書状を為景に送っていることが上杉文書で知られるから、資頼はこの時、河越城の朝興のもとに身を寄せていたかとも思われる。しかしその後、享禄三年(一五三〇)九月頃、資頼は渋江三郎を破って岩付城主に復帰した。同年十月比企郡八林の土豪道祖土図書助(さいどずしょのすけ)に合計二九貫五〇〇文の知行を宛行っている(『武州文書』)。岩付城奪回の論功であろうと思われる。

 資頼の文書は以上の他、年未詳八月二十一日付の道祖土図書助宛、棟別四間を免除する判物の合計三点しか伝えられていない。そのため、彼が岩付城主としてどのような政策を展開したかは不明である。しかし父の資家の文書は一点も伝えられていないから、資頼は岩付城主太田氏として史料上確認できる最初の人物であるという点で重要であろう。

 北条氏綱はその後、天文六年、武蔵の失地回復という宿願を果さぬまま没した上杉朝興の子朝定と、河越の南西、入間郡三木で戦って大勝した。朝定は河越城を捨てて松山城の難波田氏を頼ったが、追撃した氏綱に敗れ、難波田氏と共に、上野の山内定正のもとに逃れた。このような北条氏の武蔵進出の前に大きく立ちはだかったのは、政氏の子義明であった。彼は先に政氏・高基との対立から古河を出奔していたが、上総真里谷城主、武田信勝に迎えられて小弓(おゆみ)城に入り、小弓御所と称して、古河公方に代って関東統一の機をうかがった。安房の里見義堯もこれを支持したから、その勢力は強大なものとなった。これに対し、氏綱は、古河公方高基との連携を深め、高基が天文四年(一五三五)没して子の晴氏がその跡を継ぐと、自分の娘をその室に入れた。もはや昔日のおもかげを失ったとは言え、関東での権威の象徴である古河公方をその手中に収めた氏綱は、天文七年十月、両勢力の接点であった下総国府台(現市川市)に義明と戦ってこれを倒し、里見義堯を安房に敗走させた。

 鶴岡八幡宮の社僧快元による同社の造営略記『快元僧都記』によれば、同年二月二日、氏綱は、国府台戦に先立って義明方の葛西城を陥落させ、岩付城をも攻めて「近辺悉(ことごとく)放火」した。この頃、岩付城では資頼が天文四年に没し(天文十五年とする説もある)長子の資時が城主となっていたが、この段階では、依然岩付が反北条の砦となっていたことが知られる。

 かくして北条氏は、氏綱の代に江戸、河越、松山といった武蔵の主要な城を獲得し、関東制覇の基礎をほぼ築いた。