三楽斎資正

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太田資正は、道可資頼の次子で、岩付太田氏の全盛期を築いた人物である。資正の兄資時は信濃守を名乗り、父のあとを受けて岩付城主となった。しかし、資時の文書は現在まで一点も伝えられていないから、彼がいつ岩付城主となり、どのような支配を行なったかは不明な点が多い。ただ、永禄二年(一五五九)に成立した北条氏の『小田原衆所領役帳』にある次のような記載が、資時に関する史料としてかねてから注目されて来た。

 一   上原出羽守

  四拾八貫五百文    小机 市郷

  六拾七貫七百八拾文 久良岐郡 富部大鏡寺分

   以上 百拾六貫弐百八拾文

  太田信濃入道御味方に参候時 無二当方へ申上候 因茲美濃守御敵申時 岩付迄引切馳参候 其時市郷被下 諸不入之御判形頂戴

 すなわち、太田家臣上原出羽守は、太田信濃入道(資時)が小田原に味方した時、出羽守も小田原へついた。その後美濃守(資正)が小田原に敵対した時には、岩付まで攻め入り、その恩賞として小机の市郷(現横浜市港北区市ケ屋町)を北条氏から与えられた、という内容である。これによれば資時は、父の資頼と違って、北条氏に通じ家臣の中にもそれに従う者があったことがわかる。武州文書にも北条氏康が「其方別而当方御荷担候事 誠祝着候」として、天文十六年(一五四七)八月七日付で市郷を上原出羽守に与えた判物があるから、資正が北条氏に敵対して、上原出羽守が岩付まで馳参じた時期は天文十五年の有名な河越夜戦(後述)の時期前後のことであり、その時既に資正が岩付城主の地位についていたと推測される。

 なお『太田潮田系図』中に信濃守(資時)を、「法名号月齢全鑑」としている点に注目し、太田資時は『宮城・豊嶋文書』や武州文書に散見する(左京亮)全鑑その人であるとする説もある。全鑑は宮城中務亟(政業)に年不詳二月二十七日付宛行状で、大まき(浦和市大牧)と市谷(未詳)を与えている。大間木は後に北条氏によっても安堵されており、全鑑が岩付城主であったことを傍証する史料であると考えられている。

 岩付城主となった太田資正は、現在まで伝えられている所では、天文十八年(一五四九)九月三日岩付の慈恩寺に六十六坊を寄進する文書を出したのを始めとして、埼玉、足立、比企などの各郡に三〇通近くの文書を残した。この三郡がほぼ資正の支配地域であったと思われる。いま練馬郷土史研究会刊の『太田氏関係文書集第二』によって、資正が岩付城主としての地位を保った永禄七年(一五六四)までに同城周辺に発給した文書の概要を示せば別表の如くになる。

太田資正文書
第2表 太田資正文書
年月日 種類 宛所 備考
1 天文18年9月3日 判物 慈恩寺衆徒中 慈恩寺文書・武州文書埼玉郡
2 〃 22年6月11日 判物 忠恩寺 忠恩寺文書・ 〃   〃
3 〃 23年4月8日 書状 蘆根斎 清河寺文書・ 〃  足立郡
4 〃 23年4月8日 書状 蘆根斎   〃  ・ 〃   〃
5 弘治2年3月5日 判物 大行院 大行院文書・ 〃   〃
6 丙辰(弘治2)年11月29日 判物 玉林坊 玉林坊文書・ 〃   〃
7 弘治3年4月8日 判物 道祖土図書助殿 道祖土家文書・ 〃 比企郡
8 〃 3年4月8日 判物 赤井坊 無量寺文書・ 〃  足立郡
9 (年不詳)7月朔日 禁制 (赤井坊)   〃  ・ 〃   〃
10 永禄2年10月13日 判物 金剛寺侍衣禅師 金剛寺文書・ 〃   〃
11 〃 4年5月22日 判物 比企左馬助殿 比企家文書・ 〃  比企郡
12 〃 4年12月21日 判物 比企左馬助殿   〃  ・ 〃   〃
13 〃壬戌(5)年10月22日 書状 北野神主殿 北野神社文書・新編武蔵風土記稿入間郡
14 (年不詳)7月27日 判物 道祖土図書助殿 道祖家文書・武州文書比企郡
15 (〃 )9月15日 判物 平岡孫六殿 平岡家文書・ 〃  足立郡
16 (〃 )12月22日 書状 比企左馬助殿 比企家文書・ 〃  比企郡
17 (〃 )12月24日 印判状 比左馬殿   〃    〃   〃

 これらを通じて資正の岩付城を中心とする周辺地域支配の概形をほぼ知ることができよう。

 まず第一に、文書の残存する経緯から寺社に宛てた所領安堵、門前石入、諸後免許等の判物類が当然のことながらほぼ半分を占めている。その他で注目されるのは第一に、道祖土氏宛に二通、比企氏あてに四通の資正文書が伝存していることである。道祖土氏は、此企郡八林村(比企郡川島町下八林)に居住した土豪で「道祖土氏系図」では藤原氏の末裔を称し、早雲以来小田原北条氏に仕えて来たとしている。しかし前にも触れた通り、すでに資正の父道可資頼は享禄三年に道祖土図書助に二九貫五〇〇文の土地を宛行っているばかりか、年不詳八月二十一日付判物で「従亡父代此方事走廻以上」としているから、資頼以前から岩付太田氏に従っていたのは明かである。資正は弘治三年(一五五七)道祖土図書助にあて「三尾谷郷の伝馬の儀につき、田地を指上げる百姓があれば、その断に及ぶべし」と命じた。三尾谷(みおや)は、三保谷とも書き現在の比企郡川島村のうちで、「太田潮田系図」によれば、この地には道灌の陣屋があり、その縁で道灌の弟(一説に叔父)叔悦禅師が資家の菩提を弔うための養竹院を開いた、と伝えている。太田氏の古くからの伝領地であったことが知られる。

 資正はすでに弘治三年の段階でこの三尾谷と岩付城との間に伝馬制を施いていたわけであるが、「田地を指上げる百姓」というのは、伝馬役の負担を忌避して耕作を放棄する百姓があったのであろうと考えられている。道祖土氏は三尾谷郷に自己の領地を持ちながら、岩付太田氏の伝領地の代官をも勤めていたのであろう。そのことはのちに永禄十年、北条氏が虎印状によって三尾谷と戸森両郷の代官職を道祖土氏に安堵したとき、「源五郎(資正の嫡子氏資)の時の如く相違無く仰せ付け」としていることでも確かめられる。

 一方、比企氏は比企能員の後裔を称する比企郡内の名家で、資正は永禄四年五月に比企左馬助に所領を安堵し、同年十二月には比企郡の郡代に任じている。この年は、上杉政虎(謙信)が小田原城に北条氏を攻囲し(後述)資正がその先鋒を勤めた年である。比企氏はこの謙信の関東侵入に資正が積極的役割を果たした永禄三、四年の段階で資正に臣従したものであろう。

 第二に注目されるのは、弘治二年(一五五六)三月に大行院(現鴻巣市上宮内)に上足立三十三郷での伊勢熊野への先達職(せんだつしき)等を安堵し、ついで十一月には玉林坊(現浦和市中尾)に下足立三十三郷での同職等を安堵していることである。大行院と玉林坊はともに京都聖護院の配下に属する本山派の修験で、聖護院から大宮を境として、上・下に分けられた足立郡のそれぞれの先達職を認められていたが、境目について紛争が生じたので、岩付城主として資正がそれぞれの先達職を再確認したものである。熊野三山や伊勢に対する信仰は、中世武士の間で広く行われ、修験者は諸国をめぐって布教し、先達(御師)として檀那(信者)を獲得して彼等の種々の願いを祈念するために熊野に登った。戦国大名は、自らの信仰のためばかりでなく、しばしば自由に各地を遍歴して歩くことのできる修験者に軍事的、政治的なスパイの任務を負わせるため、領内にある修験道場を保護したといわれている。資正にそのような意図のあった徴証はないが、先達が領内を自由に行動することは、当然領内管理の上で問題となるから資正以後両所に対する先達職の確認は岩付城主としての権限に属するような形をとることになった。

 第三点は、資正の文書には現われていないのであるが、永禄三年(一五六〇)に資正の嫡子氏資の名で岩付城下の勝田氏にあて、「岩付領において、れんしゃく(連雀)公事、棟別免許の由、証文明鏡の上、猶(なお)相違あるべからざるもの也」という判物(現存するのは写しのみ)が出されていることである。永禄三年には資正は岩付城主の地位を確保しているからこの時点で氏資が判物を発給したかどうか疑問であるが、現在も岩槻市に継く勝田家に残された一連の文書写しの中にある天正四年五月二十一日付の勝田大炊助あての北条氏印判状には、「道也(氏資の法名)証文明鏡の上」として氏資判物と同様の安堵をしている。また勝田氏は天正十八年(一五九〇)の岩付落城後は、城下に帰農したが高力氏に取立てられ、肝煎として市の差配にあたり、子孫は町年寄、名主役など岩槻宿の要職についたという。

 以上の点から、永禄三年という時点に問題は残るものの、氏資が連雀公事を勝田氏に免除したのは事実であり、その判物中に「証文明鏡」とあることは、少くとも氏資の父資正がそもそも同公事を免除したのであろうと推測させる。連雀とは連尺とも書き、各地をめぐって物を売り歩く行商人のことで、当時の関東一帯の経済状況はまだやっと六斎市の段階であるから、各地に形成されつつあった市(いち)にとって連雀商人は不可欠のものであった。資正は、連雀商人に領主として賦課する負担つまり連雀公事を勝田氏に対して免除することによって同氏を中心に岩付城下をはじめとする領内各地の市立を行わせ、領内経済の発展を意図したのであろう。

 ところで「武州文書」埼玉郡には大口村(現岩槻市大口)武助所蔵文書として名高い「市場之祭文(いちばのさいもん)」なるものがある。中世には祭文語りといって祭や慶事に際して、錫杖(しゃくじょう)・洞貝を持ち山伏風の姿をして、めでたい言葉を節をつけて語って銭を得る職業があった。市場之祭文も市を開く際山伏によって市神の祭が行われた時に読まれたもので、前半は市の成立を天照大神などのはかり事として説き起こし、日本各地の神々の名を並べ立てて、大社寺の祭の際に市の成立したことを説き、「万春栄花、千秋繁昌」と結んでいる。

 この祭文は延文六年(一三六一)に書かれたものを応永二十二年(一四一五)に写した、としているが実際の成立は戦国期以降に下るであろうとされている。注目すべきは、祭文の後半に武蔵・下総両国にわたって合計三〇を越える市の名が列記されていることである。これについてはすでに戦前の『埼玉県史』をはじめ豊田武氏の『中世日本商業史の研究』等によってとりあげられ、これらの市の現在地との比定が進み、現在はほぼ確定された。これを岩槻市を中心に見るならば、岩付ふち(富士)宿、岩付くほ(久保)宿、末田(以上岩槻市)、春日部郷(春日部市)、野田・大門(以上浦和市)、鳩ヶ谷之里(鳩ヶ谷市)、八十(八条カ八潮市)、須賀、久米原(以上宮代町)、野田(白岡町)、平野、黒浜(以上蓮田市)、吉河(吉川町)、彦名、花和田(以上三郷市)等々の如くである。その他同書に記載された市名は現在の大宮市、川口市、与野市、鴻巣市、川島町、行田市等々の各地に分布している。これらの市(いち)は岩槻市を中心に埼玉県の東部に偏在し、岩付太田氏の勢力範囲とほぼ一致している点が、かねてから注目されて来た。長い間不明とされて来た「武州き(騎)西のこふり(郡)かゝさねかふ道いちまつり」も、かふ道は不明としても「かゝさね」は岩槻市の金重(かなしげ)に当るのではないかと思われる。金重は、武蔵七党野与党の族金重氏の在所で、渋江などと並んで古い地名であることが知られ、古代以来一般的な名(みょう)から起った地名であろうと考えられる。金重名が「かながしげみよう」と呼ばれ、それが「かがさね」に転訛したと考えられないだろうか。しかし、吉河、彦名、花和田といった葛飾郡の地は資正や、氏資の時代には明らかに岩付城の支配下に入っていないから、岩付太田氏といっても氏資死後北条氏政が子の氏房を岩付城に入れ太田氏を名乗らせて以後のものであろう。太田資正時代に東部地域にこれ程濃密な市の分布が見られたことについては否定的な見方が強い。

 資正の文書中には現在までのところ、越谷や越谷市域の地名は全く姿を見せない。また市場の祭文の中にも、越谷市周辺には多数の市が存在したことが記されているのに、越谷については記されていない。しかし、前述の通り、氏資の文書から勝田氏に連雀公事を免除したのは資正からであると推測されるのと同様に、後述するように永禄十年(一五六七)七月に氏資が平林寺に越谷市域にあった四条村を安堵し、また元亀三年二月に北条氏繁が大相模不動院(現大聖寺)に出した判物に「右、大摸不動院古来より岩付祈願所につき」としとしていることなどからすれば、越谷市域の地も資正の時代から岩付城の支配下に入っていたと見てほぼ間違いないであろう。

 また市(いち)については『新編武蔵風土記稿』に越ヶ谷宿で二・七の六斎市が始まったのは文禄年間(一五九二~九六)であるという伝えを載せている。これについては天正十四年(一五八六)一月に岩付城主太田氏房が大相模不動坊に発した禁制が注目される(「西角井家文書」市史第三巻五三ページ)。

太田氏房禁制(西角井文書)

     禁制

  一 喧嘩口論の事

  一 押買狼藉の事

  一 博戯博奕の事

  右条々違犯の輩は則ち披露を遂ぐべし、厳科に処するべき旨、仰せ出さるもの也、仍って件の如し

   天正十四丁亥

        (太田氏房朱印)

     正月廿八日 福嶋又八郎これを奉わる

       大相模不動坊

 

ここに言う「押買」とは、売手の意に反する安い価格で強制的に物品を買い取ることで、中世、特に戦国期に「押売・押買」と並列されて市や宿(しゅく)などの流通を混乱させる行為としばしば戦国大名から禁止された。この禁制から、天正十四年(但し文書中の干支丁亥は天正十五年)の段階には、大相模不動の門前で六斎市とまでは行かないにしても定期的に市が開かれ、人々が群れ集まっていたことが知られよう。この文書は越谷市史第三巻の注にもある通り、大聖寺所蔵の写しが知られていたが、同写しには印判についての記事が無かったため、長い間誰が発給したのか不明であった。しかし、近年大宮市氷川神社の神官西角井家から埼玉県立文書館に委託された同家文書中から下部が切断された原文書が発見され、その朱印より太田氏房の発給したものであることが明らかにされた。

 太田資正は、岩付城主として埼玉郡、足立郡、比企郡を中心に入間郡の一部も支配し、在地有力者を代官として直轄領を掌握し、領域の一部には伝馬制をしき、また特権商人の育成と領内経済の発展を図った。その意味で、のちに小田原北条氏が形成する「岩付領」の基礎はすでに資頼・資正父子によって築かれたということができよう。北条氏は武蔵一国を支配する上で、このような岩付城とその支配領域を手に入れることは必須の条件であったから、資頼在城時代以来、しばしば同城を攻撃した。また一方では、婚姻政策を通じて岩付太田氏の勢力を吸収する方策を探った。経済力・軍事力で質・量ともに劣勢の資正は、硬軟両面にわたる北条氏の攻勢の前に、一時的には小田原に従わざるを得なかったと思われる。永禄二年の『小田原衆所領役帳』に資正・氏資父子が他国衆として合せて九〇〇貫文を越える役高を負っているのは、その表れであろう。資正が本格的に小田原に対抗しはじめるのは、上杉謙信の関東侵入をまたなければならない。