河越夜戦

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小田原北条氏の関東制覇の基礎を築いた氏綱は、天文十年(一五四一)、五十一歳で小田原に没し、氏康がその事業を継承した。これより数年、関東は静かに過ぎたが、天文十四年再び上杉氏の動きが活発になる。この年九月、上野の山内上杉憲政は、扇谷家の朝定と共に、氏康と対立していた今川義元に支援を頼み河越城を囲んだ。憲政は古河公方晴氏にも使者を送り、これを説得して河越包囲軍に加えた。ここに、足利持氏以来分裂と抗争を続けて来た関東公方と山内・扇谷両上杉の三者は反北条という一点で大同団結をしたわけである。河越城の守将、北条(福島)綱成(つなしげ)は、この大軍を迎えて、よく城を支え、合戦は年を越した。氏康は、天文十五年(一五四六)四月、馬廻衆八〇〇〇余騎を率いて武州砂窪へ出陣した。しかし敵兵が余りに多いのに驚いた氏康は、晴氏に使者を送り和を請うたが、勢に乗る晴氏はこれを拒絶した。氏康は、謀り事で上杉方を油断させ、同月二十日の夜、上杉陣を急襲した。数を誇った上杉軍もたちまち大混乱に陥り、朝定は敗死、憲政は平井城へ、晴氏は古河へ敗走するという大敗北を喫した。これを世に河越夜戦という。

 この合戦の持つ意味は大きかった。上杉氏は北条氏に反撃できないまま、天文二十一年(一五五二)七月、平井城を氏康に攻略され、顕定は越後に逃れて為景の子長尾景虎に頼った。古河では、天文二十年、氏康が簗田晴助に起請文を入れ、翌年十二月には晴氏は氏綱の娘の生んだ義氏に古河公方を譲った。古河公方重臣としての簗田氏の地位の保証を条件に氏康が晴助と取引きしたのであろう。しかし天文二十三年には、氏康は古河を攻略し、晴氏とその子藤氏(母晴助娘)を捕えて相州秦野に幽閉した。ここに、両上杉と古河公方家は事実上滅亡した。

足利頼親と義氏の墓(古河市)