謙信の関東侵入と資正

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天文二十一年の山内憲政の越後敗走後、関東で北条氏に敵対したのは、武蔵では岩付城の太田資正、忍城の成田長泰らであった。また安房の里見義堯は天文七年の国府台敗戦後、小弓御所という障害物がなくなったことでかえって勢力を伸ばし、房総を制圧して弘治二年(一五五六)には三浦半島に攻め込むなど反北条の中心勢力にのし上がった。

 資正、長泰らは盛んに越後の憲政、景虎と通じ、義堯もまた北条氏との対抗上、越後との連携を深めたから、長尾景虎の関東進出が次第に日程に上りつつあった。

 永禄三年(一五六〇)九月、景虎は三国峠を越えて上野厩橋城(前橋)に入った。景虎の本格的関東入りの第一回目である。北条氏に圧迫されていた関東の諸将はこれを支持した。同城で越年した景虎は永禄四年三月、上杉憲政を伴って北条氏の本拠地小田原城を囲んだ。資正はこの時、前年十二月には石浜(現台東区浅草)、品川の地まで南下して制札を出し、永禄四年二月には武甲国境の和田峠、小仏峠に制札を出して甲州勢の侵入を牽制するなど、景虎軍の先鋒として行動している。

 景虎は三月七日から小田原城を攻囲したが、北条方は籠城したまま打って出なかったから景虎も兵を引いて鎌倉に入り、閏三月十六日鶴岡八幡宮の神前で山内上杉氏を継いで名を政虎と改め、関東管領に就任した。また同日簗田晴助に起請文を入れ、北条氏の立てた義氏を否定して藤氏を古河公方とした。強豪上杉謙信もまた、新興戦国大名の常として、諸将圧服のために古河公方の伝統的権威を利用したのである。

 『関八州古戦録』等の諸書によると、管領就任の儀式の際に、忍城主成田長泰に無礼な振舞があったので、政虎は彼の烏帽子を打ち落したため、憤激した長泰は一族を引きつれて忍へ引き上げ、武蔵各地の地侍も多くこれに従ったため、鎌倉から厩橋へもどる政虎の殿(しんがり)は資正のみがつとめた、と述べている。武蔵の諸将と政虎の間が必ずしも、しっくりいっていなかったことを示す話であろう。それだけにますます、伝統的権威を政虎は必要としたし、太田資正に頼むところも大きかったと思われる。この頃が、資正の最も得意の時期であった。

 政虎の帰越後、北条氏は武蔵各地での勢力挽回に努めた。『相州兵乱記』によると、謙信と信玄が四度目の川中島合戦をした永禄四年九月十日頃、資正は、謙信の下知により小田原方の松山城を攻撃し、上田案独斎朝直を逐って、上杉憲政の養子憲勝をここに置いた。これに対し氏政は、十二月には北条綱成らに松山城を攻撃させた。しかし松山城側もよく守り、陥落しなかったから、綱成は城下一帯に放火して引き上げたという。この松山合戦のことは史料的に確認できないが、同年十一月二十八日付氏政の小野藤八郎宛感状(相州文書)などにより十一月二十七日に北条軍と上杉軍が武蔵生山で衝突したことが知られるから、ほぼ確実なものと言われる。