越谷郷と本田氏

296~302 / 1301ページ

永禄四年十一月関東に出馬した上杉輝虎(この頃、将軍義輝の一字をもらい改名)は翌年正月には再び厩橋に入った。北条氏の松山城攻めや、それに呼応した信玄の動きを封ずるためである。

 この輝虎の関東侵入を巡る動きの中で、「越谷」の名が史料の中に初めて登場する。本田輝雄氏所蔵文書中の北条氏印判状に

  於足立郡知行義

  可被下由御約諾雖

  在之、越谷舎人

  被下与は御留書に無

  之候、然者雖両郷大

  郷候、重〻一忠信致

  之付者速可被下候、

  涯分不惜身命可

  走廻者也、仍如件

  戌    (虎印)

   八月廿六日

              遠山左衛門奉

    本田とのへ

と、あるのがそれである。「足立郡内に知行を与えると約諾したけれども、越谷・舎人(現東京都足立区舎人町)を与えるとは、御留書にも無い。しかし、両郷は大郷ではあるが、更に忠信をつくせば、与えるであろう。」という大意である。本田氏はなぜ、越谷郷を望んだのであろうか。

北条氏印判状(本田家文書)

 この年二月一日付で里見義堯は岩付への参陣を求めた輝虎に書状を出し、一月二十九日には上総臼井城に至り、ついで「市川十里之内に取陣候」と報じている(上杉文書注年次央、永禄五カ)。里見氏はその後、川を越えて、江戸城の前進基地とも云うべき葛西(かさい)の地に侵入し、ここを制圧したのではないかと考えられる。先の北条氏印判状を中心とする一連の本田文書の中に、「葛西要害以思乗取上申付者」として、葛西城を乗取った者には、曲金(現東京都葛飾区)、両(東西)小松川、金町の地を褒美として与えよう、という内容の同年三月二十二日付氏康の判物があり、同じく四月十六日付氏政の判物でも上記の葛西の四ヵ所(現在の東京都葛飾区のうち)の他に江戸廻の飯倉(現港区飯倉町)の地を加えている。

 この葛西争奪戦は、北条氏の勝利に終り、本田氏も約束の地を手に入れた。同年八月十二日付北条氏印判状では、本田氏が獲得した金町郷(葛飾区金町)について小金(松戸市)の高城氏より横槍が入ったのに対して、「是は一旦の儀候、此上は相違無く入部致すべき者也」として本田氏の金町郷領有を確認している。高城氏は千葉氏の一族であったが、文明頃から自立する動きを見せ始め、高城胤吉は小金栗ヶ沢城、根木内城に続いて天文六年(一五三七)には大谷口城(小金城)を築いてこれに拠った(『八木原文書』)。この頃から高城氏は、房総に猛威を振っていた小弓義明・里見氏の勢力と対抗するため小田原北条氏の支配下に入った。永禄二年の『小田原衆所領役帳』では相州東郡に一七貫余文の地を与えられて北条氏の他国衆として遇されている。従って永禄五年の葛西争奪戦にも北条方として参戦していたと思われる。永禄前半は高城氏にとって、北条氏の権威に従属しながら周辺地域に勢力を広げつつあった時期であり、小金を中心とする同氏の勢力圏に接する金町郷が本田氏の手に渡るのを無視できなかったのも当然であろう。北条氏に従属することで小金における地位を確立した高城氏は、他面では北条氏から自身の領主的発展に一定の枠をはめられざるを得なかった。これは戦国大名に従属した、当時の在地領主の一般的な姿でもあった。

第3表 本田家文書
年月日 種類 宛所 備考
1 (永禄5年カ)3月21日 北条氏康判物 本田とのへ 同心者へどの地においても郡代非分・横合のないことを保障する
2 (永禄5年カ)3月21日 北条氏康判物 本田とのへ 今度忠節を尽せば,江戸筋一所,足立郡二所の知行を約束する
3 永禄5年3月22日 北条氏康判物 本田とのへ 葛西乗取を条件に,曲金,両小松川,金町の知行を約束する
4 永禄5年4月16日 北条氏政判物 本田とのへ 同上,飯倉を加える
5 壬戌(永禄5年)8月12日 北条氏印判状 本田殿 金町に対する小金高城氏の横合を禁じ,本田氏の入部を確認する
6 戌(永禄5年)8月26日 北条氏印判状 本田とのへ 忠信を尽せば,越谷・舎人両郷を与えると約束する
7 戌(永禄5年)8月29日 北条氏印判状 本田とのへ 飯倉領他合計貫文の請取を命ずる
8 亥(永禄6年)8月12日 北条氏印判状 本田殿 葛西忠節の時の御判形二通を確認する
9 永禄12年5月20日 北条氏印判状 本田熊寿殿 熊寿の相続を認め,伯父甚十郎に手代を申付ける

 さて、北条氏は先の印判状に続いて八月二九日付で本田氏に「飯倉左近私領卅九貫文、此外内所務卅貫文、公方領卅貫文、以上九拾九貫文」の請取を命じているから、同氏が金町郷以外の約束の地もほぼ獲得したことが知られる。この両印判状の中間に、「越谷・舎人」の出る印判状が位置するわけである。この段階では岩付城の太田資正は健在であり、越谷は当然彼の支配下にあったし舎人(足立区舎人町)も岩付の家臣舎人孫四郎の所領であったと思われる。このような敵地をことさら本田氏が望んだのは、葛西争奪戦の余波がこの頃には足立郡南部から、越谷にかけて広がっていたからでもあろうか。すでに同年一月には、氏康も、資正支配下の足立郡に兵を出し慈眼寺(大宮市)や笹目郷(戸田市)を焼き払ったことが浦和氷川神社の「大般若経識語」によって知られている。里見義堯と資正との連携を攪乱するための出兵であろう。ともかく永禄五年八月二十六日付本田氏宛の北条氏印判状は、この時期に既に「越谷」という郷が存在し、しかも大郷であると考えられていたことを明らかにした点で当市にとって貴重な史料であると言わなければならない。

北条氏印判状(本田家文書)

 ところで、この本田氏とはどのような人物であろうか。『小田原衆所領役帳』には全くその名を見せない。『寛政重修諸家譜』によれば、上総介忠常の五代親幹が本田氏を名乗り、その孫親恒は頼朝につかえ、ついで島津忠久に属し、親正に至って北条氏康に仕えた、としたのち

としている。北条氏から葛西の各地を宛行われたのは本田正勝とされていたことがわかる。島津氏に仕えた本田氏が北条氏家臣となった事情について別本本田家譜では、親正が「十八歳時出武者修行、経歴関東而数顕勇名」して北条氏康に仕えた、と述べている。

 本田氏が『小田原衆所領役帳』に姿を見せないのに対して島津氏は「江戸衆」として島津孫四郎、同又次郎の名が見え、それぞれ五三三貫余文、一三八貫余文の役高を持ち、また島津衆として太田新次郎、島津弥七郎の名も見えている。孫四郎は寄合衆で身分的にはそれほど高くないが、役高は江戸衆中のトップクラスに属する。「小田原編年録」所収の北条氏文書にも島津左近大夫、島津左衛門等の名が散見する。また孫四郎所領の荏原郡北品川にある清徳寺には天文十二年九月六日付島津忠貞寄進状がある(武州文書)。この忠貞について、『新編武蔵風土記稿』荏原郡の同寺の解説では「諸家系図」を引いて忠貞は島津相模守忠幸の子で幼時に出家、享禄年中足利学校へ赴く途中乗った船が難破して駿河に至り、今川氏親に仕えたが、のち北条氏綱の病気を直したことから氏綱に仕え、永禄年中八月二十日戦死(風土記稿は永禄二年八月十二日とする)したと述べている。島津忠幸は一瓢斎と号した島津運久のことで、その養子忠良は戦国大名としての島津氏の実質的な祖となった人物である。島津系図の中には忠貞の名は全く見えない。然し「諸家系図」の伝える忠貞の所領は孫四郎の所領と一致する所が多く、孫四郎らが忠貞の系譜に連なるとみなすことは可能であり、忠貞の没年から彼と孫四郎とは同一人物と見られないこともない、といわれる(三木靖著『薩摩島津氏』)。

 ここで興味深いのは小田原北条氏輩下の島津氏と本田氏が、時期に多少のずれがあるとはいえ、ともに薩摩から関東へ流れて来たと称している点で一致していることである。

 もともと島津氏はその祖忠久が頼朝の落胤であるという伝説やその妻が畠山重忠の女(むすめ)であったという伝えからも分るように、関東出身の御家人であったと思われる。同氏が本格的に薩摩に入部するのは鎌倉末であり、南北朝後半期に至って守護として領国支配を完成する。従って関東やその他の各地に島津氏の流れが残ってそれが戦国期まで続いたことは、他氏の例などからも十分考えられる。現在まで伝えられている系図の多くは近世に入って整理されたものであるから、意識的にせよ無意識的にせよ脱落や書き替えが行われたと見なければならない。南北朝期の文和元年(一三五二)、同三年の島津文書によれば、島津周防守忠兼が勲功の賞として相模国山内庄内の岩瀬郷(鎌倉市山之内)を与えられ、代官を置いて支配していたことが知られているが、忠兼に当る人物は諸島津系図には全く現われていない。

 また忠貞や孫四郎との関連も不明である。本田氏についても同様で、主家に従って薩摩に渡った本田氏(島津文書には同氏の名が多数みえ、島津氏の重臣として扱われた者も多い)と関連があるにせよないにせよ、それ以外の本田氏があったと考えなければならない。

 越谷郷を望んだ本田正勝の死後、正家が跡を継ぎ引き続き北条氏に仕えたが、小田原落城後は家康に仕え葛西領、香取郡等の旧領の地に五五〇石を与えられたという。本田氏の臣だった金町の鈴木家には、天正以後の本田氏文書が数点、現在まで伝えられている。この本田氏が近世、徳川氏に自家の系譜を呈するに当り、歴史上著名な島津家臣本田氏から直接分れたことを強調するため、正勝の父が「武者修行」に出て関東に渡ったという甚だ近世的な説明を加えたものであろう。島津忠貞が足利学校へ行く途次、難船して駿河に至った、という伝えと同様の「虚実を構えた」(三木靖・前掲書)感があると言わざるを得ない。

 しかし本田氏についてはまだ未解決の点が多い。武蔵国男衾郡本田郷出身と考えられている本田氏の実質的祖親恒(吾妻鏡には近常に作る)の流れとどう結びつくのか、『小田原衆所領役帳』に名前が見えないのはなぜか、同帳の島津孫四郎とどのような関係にあったのか、等々問題は今後に残されている。また永禄五年に本田氏が獲得した所領のもとの領主はどうなったのかも不明である。本田氏が獲得した金町郷に対して小金の高城氏から横槍が入ったのに、小金より近い飯塚(葛飾区水元飯塚町)を所領としていた会田中務丞の動きが一連の本田家文書に現われないことは、越谷にとっても大きな問題として残されたままである。