国府台合戦と資正の追放

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このころ江戸城にあった太田源六郎康資は、大永四年(一五二四)に扇谷上杉を裏切り北条氏の江戸城獲得のきっかけをつくった太田資高の子であった。彼は「所領役帳」によれば、自己の役高九三一貫余、寄子衆に配当する分として四八八貫余、合計一四一九貫余の貫高を有して江戸衆の中でも大身の部将であった。しかし江戸城を造った道灌や、父資高の北条氏への功績を思えば、この程度の扱いは不満であったらしく、資正や里見氏が謙信と呼応して小田原と対抗する中で、次第に叛逆の志をつのらせ、遂に資正に内通するに至った。『太田家記』は、康資謀叛の理由として「今度乗取被成たる、葛西三十三郷を御領知之御望に思召」たのに対し、氏康が同心しながら引き延ばしたこと、父資高の遺領を、氏康は全部は相続させなかったこと、の二点をあげている。先に氏綱が葛西城を陥した天文七年から、康資謀叛の頃までは、二十数年の隔りがあるから、「今度乗取」というのは、前述の永禄五年の葛西奪還を指すものと思われる。

 康資の謀叛は程なく江戸城代遠山氏の知る所となり、身の危険を感じた康資は、江戸城を出奔して里見方へ走った。輝虎は、永禄六年閏十二月、上州に入り、里見、太田両氏を動員して本格的な北条氏打倒に乗り出した。第二次国府台合戦の幕開けである。

 翌永禄七年(一五六四)の正月朔日、里見義弘と康資の軍が葛西へ動いたのに対し、太田次郎左衛門尉と恒岡弾正忠の両名に「寄子加世者事者不及申、中間小者迄相改、葛西へ不紛入様」厳命し、更に江戸城を守るよう下知している(小田原編年録所収氏康書状写)。次で、市川に進出をした里見義弘が岩付に送った兵粮について、その値段が折合わず、引渡しが滞っている、という情報をキャッチした氏康は、同四日、伊豆衆の秩父氏・西原氏に書状を出してその状況を伝え「明五日、小田原から具足を付けて、腰兵粮を馬にかけて出陣するから、明日昼以前に小田原に着くように、兵粮の無い者は小田原で借りよ、陣夫は一人も召連れて来るな」と命じている。氏康の迅速果敢な行動と合戦の緊張を生々しく伝える史料である。

 こうして、里見義弘・太田資正連合軍と、北条軍は一月七日、国府台で激突した。

 国府台は、その西方を流れる江戸川(太日川)からの標高二〇メートル、西と南は断崖、東は谷津になっていて、江戸方面を見おろす天然の要害であった。現在の江戸川は近世の開削になるもので、当時ははるかに川幅狭く水量も少なかったであろうが、江戸方面からの攻撃を迎えるには絶好の地理的環境にあった。

 諸々の合戦記などによると、義弘の率いる房総兵六〇〇〇余、資正の率いる二〇〇〇余、併せて八〇〇〇の兵が国府台の台地上に陣取った。北条軍は、第一次国府台戦同様、国府台の唯一の弱点をつくべく、江戸城代遠山直景、葛西城主富永四郎を先鋒として搦木(からめき)の瀬を一気に渡って攻撃の口火を切った。緒戦に於て、里見方の太田康資、正木時茂らの奮戦により、遠山・富永の討死をはじめ、北条軍はかなりの打撃を受けた。しかし、勝利に油断をした里見軍に対し、北条軍は翌八日、松戸と真間の両方面から、氏康・氏政が急襲したから、里見軍はたちまち敗走し、多数の将兵を失った上、資正・康資は負傷、義弘も馬を射られたが部下の馬に乗って辛くも上総へ逃れた、という。この頃、輝虎は、土浦城の山田氏を攻めていたが、北条氏の余りに迅速な出陣に間に合わず、北条氏と直接矛を交えることなく国府台合戦は終った。

国府台合戦場跡(江戸川対岸より)

 北条氏打倒の夢破れた資正にはその後、より大きな不運が待ち受けていた。当時、資正には二人の男子があった。長子は源五郎氏資(はじめ資房)、次子はその異母弟で、永禄三年謙信より名門梶原の名跡を受けて源太政景と名乗っていた。氏資の母はその出自が不明であるが、政景の母は武蔵目代大石氏の後裔信濃守定久の娘であった。

 『異本小田原記』によると、資正は「武勇に勝れ、数度の高名を顕はすといへども、口上悪しく吃りなりければ公儀無調法」な氏資と合わず、政景を寵愛した。家臣の中にも、「源太こそよき大将なれ」として政景をかつぐ動きがあり、政景の母もこれを喜んで資正を説得して政景を家督にすることを約束させた。これを聞いた氏資は、老臣とも相談して、房州里見氏のもとへ軍評定のため出張中の資正を追放、政景をも押しこめた、と伝えている。より確実な『太田資武状』にも「岩付之城属氏康手に候儀者、兄に候源五郎(氏資)、親を楯出申後之儀に御座候」と明確に述べている。

 氏資と北条氏政の妹との婚儀の約束は、すでに永禄三、四年頃迄に取り交わされていたと思われる(「歴代古案」)。北条氏は岩付城奪取のため、しばしば岩付城を攻める一方、婚姻政策を通じて岩付を支配下に収めるという硬軟両方法を追求した。武蔵各地で北条氏が伝統的に取って来た政策である。資正も、一時の力関係から氏康の申出を呑まざるを得なかったが、『太田資武状』に「源五郎氏康聟之契者、親岩付に罷有時より之事に候得共、おさな約束計に而、親彼城に罷有中者、引取不申かと存候」とあるように、婚姻の実行には踏み切らなかった。上杉謙信の関東進入が資正の北条氏敵対、ひいてはその打倒の野望を支える力となったからである。かくして資正の存在は北条氏にとっては、武蔵における最大の脅威となったから、氏資の裏切りによって歴年の望みを一挙に成就することになった。『上杉年譜』はこれを永禄七年七月二十三日のこととしている。かくして資正は国府台の敗戦後、わずか半年余りのうちに岩付城そのものを失ってしまった。その後彼は、政景と共に一時忍(おし)の成田氏長(その室と氏資は同母)を頼り、のち宇都宮国綱のもとに身を寄せた。謙信は宇都宮滞在中の資正父子のもとに家臣の河田長親を派遣し、黄金百両を与えて慰労した。資正はその頃すでに出家して三楽斎道誉と名乗っていたが、永禄七年十一月二十七日付の河田宛礼状の中で政景の引立を頼んだのち「某之儀者、年与申、無二閑居之身上、存詰迄候」と記し、隠居の意志を示している。しかし、武将としての資正の生命はこれで終ったわけではない。永禄九年(一五六六)、常陸の佐竹義重は、三楽斎道誉父子を客将として迎え、道誉には片野城を、政景には柿岡城を与えた。道誉父子は佐竹方として常陸の各地を転戦し、越後の謙信ともしばしば連絡をとって反北条の立場を貫徹したが、岩付城へ帰る日はついに訪れなかった。