上総三船台の合戦

306~310 / 1301ページ

父資正を追放した氏資が、最初に発した文書は、現在まで伝わる所によると、永禄七年(一五六四)九月七日付の内山弥右衛門尉に対する所領宛行状であると考えられている(内山文書)。この中で氏資は内山氏に「柴之郷之内沼尻」と「柳崎之内原」(いずれも現在地未詳)に合計二〇貫五〇〇文の貫高を与えた。武州文書ではこれを資正の印判状としているが、前述の通り彼はこのころすでに岩付を退去しているから、氏資が岩付城主として代替りの際に発行したものであろうとされる(『太田氏文書集第五集』)。この文書の署名の「道也」は、資正が片野退去後もうけた子資武が比企郡川島村の養竹院に残した『太田資武状』によれば「大奇道也と御座候は拙者兄にて候が、道号違申候、昌安道也にて候」とあることから資武の兄、氏資であることがわかる。しかし氏資自身が「道也」と署名したものはこの内山文書以外に伝わっておらず、この時点で法号を署名に用いたかどうか疑問とされている。

 以後、岩付城主としての氏資の文書は、内容的にはその大部分が所領の安堵・宛行、寺院への諸役免除で占められ、氏資が資正時代と変った新しい政策を打ち出したとは見られない。また、文書の残存している地域をみても、ほぼ資正以来の岩付の支配地に限定されていると言ってよいであろう。

 この間にあって注目されるのは、永禄八年五月十五日に、氏資が岩付家臣団の中でも家老格の宮城為業に足立郡舎人郷を与えていることである。もともと舎人郷は岩付家臣の舎人孫四郎一族の所領であり、しかも後には「大郷」とされる所である。それがこの時点で宮城氏に与えられたのは、不自然な形で行われた城主交替による家臣団の動揺を抑えるための重臣懐柔策ないしは論功行賞ではなかろうか。

 舎人郷はのちの元亀三年(一五七二)一月九日の北条氏着到状でも宮城氏の所領であったことが知られ「六拾貫文 舎人本村、弐十貫文 同所中之村」合せて八〇貫文は、岩付領内においてはそれほど少ないとは言えない所領であり、宮城氏への優遇策が知られよう。また氏資の所領宛行から一ヵ月も経ない六月十三日、北条氏政は先に宮城氏に与えた笠幡郷(入間郡霞ヵ関)を取上げて代りに武州菅生郷(神奈川県川崎市)を与えている。永禄二年成立の『小田原衆所領役帳』にはもちろん宮城氏の名前は見えないから、笠幡郷が北条氏によって与えられたものとすれば、永禄二年以後のことであろうし、資正と北条氏との関係からすれば、資正の岩付在城中のこととは考えにくい。資正追放後のことであれば、急速に北条氏の手が氏資を越えて岩付家臣団の上に伸びつつあったことになる。菅生郷も前記の着到状によれば九〇貫文であり舎人郷と合せて一七〇貫文は宮城氏の貫高の五割を越えている。いずれにせよ、氏資も、北条氏も、資正追放後にこの岩付城附の老臣を優遇する必要があったのである。

 このような中で、氏資は永禄十年(一五六七)七月十九日に、岩付城下の平林寺住持安首座(泰翁宗安)に判物を出し、宗安上京の留守中、寺領の馬籠村・四条村の安堵を約した。それぞれ現在の岩槻市馬籠、越谷市東町のうちである。平林寺は、鎌倉末以来の臨済宗の古刹で、道真以来代々の太田氏に保護され、岩付領内にはかなりの寺領を有していた。住持の宗安は『寛政重修諸家譜』によれば太田庶流、俗姓恒岡氏で、このころ北条氏の家臣であった恒岡越後守は宗安の兄に当る。四条村がどのような経過をたどって平林寺領となったかは不明であるが、後に述べる岩付太田氏の祈願所となっていた大相模不動や、岩付衆中村右馬助の居住した麦塚村と地理的にかなり接近した位置にあることが注目される。これらのことから、現在の東町や相模町一帯は、恐らく資正の時代から岩付城の支配下に入っていたとみてよいであろう。永禄二年の段階で所領役帳に見られる如く葛西北部や葛飾郡戸ヶ崎あたりまで伸びていた北条氏の支配地域は、関宿簗田氏に属した戸張氏の居住する吉川や、この大相模の地とは、ほんの目と鼻の間にあり、その意味からも岩付城掌握は、北条氏の東武蔵支配を拡大する上で重要な課題であったと言えよう。

太田氏資の平林寺領安堵状(平林寺文書)

 平林寺は周知のように江戸時代、川越藩主松平信綱の子輝綱の手によって野火止に移され現在に至っているが、氏資の判物も現在までそこに保存されている。

 さて、永禄十年という年は長い間岩付城に君臨して来た太田氏にとって最後の年となる。

 同年八月、太田氏資はたまたま所用で小田原に赴いた。そのころ、北条氏は房総里見氏の押えとして上総国周東郡三船台(千葉県君津市)に砦を築いて小田原の前進基地としていたが、里見勢がこれを急襲した。北条氏康は直ちに氏資に出撃を命じ、氏資はわずか五十余騎の手勢をつれて三船台に向かい、里見勢と戦って全員討死してしまった。

 この三船台合戦については、『関八州古戦録』『太田資武状』はそれぞれ永禄九年秋又は八月二十三日のこととし、『里見九代記』等里見側の戦記類は永禄十年二月又は十月のこととしている。しかし、前にみたように、永禄十年七月十九日付の氏資文書が平村寺に現存するから、永禄九年ではあり得ず、またこの折氏資と共に討死した恒岡越後守の名跡を弟の平林寺安首座に相続させるという北条氏印判状が九月一日付で出されているから、資武状にある八月二十三日あるいはその前後が合戦の日とみて良いであろう。

 次に氏資は何故わずかの手勢だけで敵地に赴いたのであろうか。『関八州古戦録』は、氏資は戦う用意が無いため一たんは断ったものの北条方の嘲笑に挑発されてそのまま参戦した、と述べ、『房総里見軍記』では、平素から資正の子として北条方の疑惑を受けていた氏資が、その疑いを解くべくより積極的に出陣して行ったとしている。ここから、氏資の戦死は北条氏の謀略に乗せられたとする説と、全くの偶然であるとする説とがある。

 北条氏が、氏資を初めから戦死させるつもりで三船台に向かわせたことを証拠づける史料は残されていないし、北条氏はこの合戦で戦う前から負けるつもりでいたわけではないであろうから謀略と断定することは無理ではなかろうか。むしろ合戦後の処理に於て先の平林寺安首座宛北条氏印判状に「於殿(しんがり)太田源五郎越度刻(おつとのとき)」とあることから、氏資が殿軍を勤めていたことが知られ「後退する時の殿軍は先陣よりなおむつかしい」(奥野高広氏)のであるから、北条軍に於て氏資は武将として高い評価を受けていたとも見られる。また「越度」については氏資が合戦の指揮で何らかの誤りがあったと考えられるが、『延命寺本里見系図』にある「八幡ノ森ニ当テ十町四方ノ深沼有、敵(氏資・北条軍)是ヲ見テ屈境ノ戦場有トテ駆行、折シモ朝霧深クシテ誠ニ平野ノ如クナレハ、敵兵悉ク駈込テ進退曾テ吐得ス(中略)太田源五郎(中略)ヲ討取ル」というのがそれに当るとする考え方がある。しかし氏資は殿(しんがり)をつとめていたのであるから、この記述通りであれば沼を平野に間違えたのを彼の越度にすることはできないであろう。はっきりしていることは、三船台の合戦で氏資に越度があったと北条氏が見ていた、ということであり、その具体的内容については不明であると言わざるを得ない。かくして氏資は敗死した。氏資と北条氏政の妹との間には小少将という女子しか子が無かったため、氏政は次男の十郎氏房を彼女と結婚させて岩付城主とし、太田氏房と名乗らせた。岩付領は完全に小田原北条氏の掌中に入った。三船台の敗戦はその意味で、北条氏に多大の利益をもたらしたのであり、謀略説が出て来るのも無理からぬ所もあると言える。

平林寺安首座宛北条氏政書状