北条氏繁の掟書

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氏資が三船台に敗死したとき、氏房はわずかに三才であったから、岩付城主として振舞うことは無理であった。この年から氏房が初めて文書を発する天正十一年に至る一五年間は、小田原が直接岩付城とその領域を支配下に置いていたと思われる。先ず、永禄十年から二、三年は、三船台合戦の戦後処理と、城主交替に伴う所領、代官職などの安堵を実施して北条氏が岩付領の支配者となったことが宣言された。次で永禄十三(元亀元)年(一五七〇)以降は、岩付領継承から一歩進めて、北条氏自身による同領の全面的再編成に手をつけることになる。

 元亀三年(一五七二)には、道祖土(さいど)氏をはじめとして一勢に着到を改定し、岩付から沼津迄の伝馬を出させたのを皮切りに天正四、五年までに、各地の竹木伐採を禁じ、渋江鋳物師に旧太田氏同様の待遇を約束し、岩付城下の勝田氏にれんじゃく(連雀)公事を免除するなど、この間の北条氏の政策は軍事力の再編成を中心として多面的に展開されている。太田氏によって形成されつつあった岩付領は、この時期に実質的に領国として成立したといえよう。天正五年(一五七七)の「岩付城諸奉行結番」(『豊嶋宮城文書』)は、北条氏の岩付領支配が一応の完成をみた宣言であるとみることができるが、これについては後に触れる。しかし、このような事態は必ずしも北条氏の思惑通りスムーズに進んだわけではなかった。異常な形での城主交代のすきをついて、在地ではさまざまな衝突・紛争が起り、北条氏の支配の進展とともに、それを阻害する大きな要因となって同氏を悩ますこととなる、

 元亀三年二月九日、北条氏繁は次のような内容の掟書を大相模不動院(大聖寺)に出した。「大相模不動院は古来より岩付祈願所として諸役を免除されて来たが、只今妄(みだり)に横合から非分を申懸る者があるのは、たいへんけしからん。今後、前々の通りに岩付の武運長久を懈怠なく勤めれば諸役免除を保障し、横合非分の者は糺明するであろう」(市史(三)52頁参照)。すなわち、従前から岩付祈願所として太田氏に保護されて来た大相模不動院に対して、在地有力者が恐らく寺領を犯すという「横合申懸」をするのを停止する、というものである。またこれに先立つ永禄十三年二月二十日には、同じく北条氏繁(当時康成(やすしげ))が百間西光院の寺家中にあて当番衆の狼藉を禁じた証文が出されている。この両文書はいずれも、一般的に非分・狼藉を禁じたものではなく、「只今妄に」とあるように、文書が出された時点で紛争があったことを示している。

大相模不動院宛の氏繁掟書