北条氏繁の岩付領支配

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北条氏繁は、河越夜戦で名高い福嶋(北条)綱成の子である。『寛政重修諸家譜』によれば綱成の父遠江土方城主正成は武田信玄と戦って敗れ、綱成は北条氏綱に仕え、その娘を妻として福嶋改め北条を名乗った。相模玉縄城主のち武蔵河越城を守り天正十五年(一五八七)に没するまで小田原北条氏の宿将として各地に転戦した。

 氏繁(初め康成(やすしげ))は氏康の輔となり父についで玉縄城主となり、のちに飯湫(飯沼)(いいぬま)城を守った。「所領役帳」には左衛門太夫殿として綱成は現われているが、氏繁の名はまだ見えない。康成から氏繁への改名は残存する文書の署名から元亀二年四月から翌年三月までの間になされたと考えられる。

 氏繁の文書は現在まで二七点が伝えられている。その初出は永禄四年(一五六一)で、この年三月中に康成の名で「江嶋房住へ」の制札、「鶴岡御院家中」「江嶋坊中」への判物の三点で残されている。両所は共に玉縄城配下であるから、氏繁は永禄四年三月以前には同城城主(あるいはこのころ下総国有吉城に在陣中の父綱成に代って同城城代)となっていたことがわかる。では氏繁と越谷、岩付領との関係はどのようなものであったろうか。この点で注目されるのは、永禄十三(元亀元)年から元亀四(天正元)年(一五七三)に至る四年間に大相模不動への掟書も含めて四点の氏繁文書が岩付領内に出されていて、同期間中の彼の文書の三分の一を占めていることである。他の七通は元亀三年の興津(おきつ)氏(駿河国興津郷の豪族北条氏臣)宛の官途授与の書状を除けば、いずれも三浦、鎌倉、久良岐の各郡内にあてられたもので、玉縄城主としての氏繁の行動を示すものである。従って少くもこの四年間は、氏繁は玉縄城主とともに岩付城主、あるいはそれに代る地位について岩付領の支配を委ねられていたと推測することができる。特に元亀三年に足立郡大行院にあてた判物で「上足立郡三十三郷の伊勢熊野への先達職衆分檀那等」の安堵について、太田源五郎(氏資)同様、氏繁も小田原の氏政へとりなして安堵してやろう、としているのは、同職が、弘治二年資正により、また永禄八年氏資により安堵されているように岩付城主の権限に属していた点から注意されなければならない。また、この四年間、虎印判状は別にしても、それ以前には出されていた氏政の文書は現在までのところ一点も岩付領内に残されていない。したがって年月日未詳の岩付城下勝田氏に与えた連雀公事と棟別餞を免許した判物についても、永禄三年氏資判物と天正四年五月二十二日付虎印判状に同趣旨のものがあり、これも元亀元年から四年に至る前後の期間に出されたものであろう。

第4表 北条氏繁の岩付領関係文書
年月日 宛所 署名 備考
1 永禄13年2月20日 百間 西光院同志家中 北条善九郎康成(花押) 武州文書埼玉郡
2 元亀3年2月9日 大摸 不動院 氏繁(花押) 越谷市大聖寺
3 元亀3年6月晦日 大行院 氏繁(花押) 武州文書足立郡
4 元亀4年2月4日 関根図書助殿 氏繁(花押) 武州文書埼玉郡
5 天正2年閏11月5日 佐々目郷 左衛門大夫(花押) 鶴岡八幡宮文書
6 年月日未詳 勝田佐渡守との 氏繁(花押) 武州文書埼玉郡

 では氏繁がこの時期に特に岩付領支配に当ったのは何故であろうか。それは恐らく、簗田氏や里見氏を中心とする下総・安房方面の反北条勢と小田原との間に急速に緊張が高まったためではないかと考えられる。

 簗田晴助は永禄元年、それまで同氏が確保して来た根拠地関宿を北条氏康に屈して氏康の娘の生んだ公方義氏に空け渡し、自分は古河に移った。永禄四年(一五六一)謙信の小田原包囲と共に義氏は退けられ晴助の娘の生んだ藤氏が新しい公方にすえられたが、同五年六月には藤氏は北条氏に捕えられて伊豆に幽閉され再び義氏が公方となった。以後簗田氏は次第に北条氏に対抗して自立する萠しをみせ、常陸の佐竹氏と結び、第二次国府台戦の翌年永禄八年ころからは北条氏との間に紛争を生じるに至った。「長楽等日記残篇」によると、同年三月一日北条氏が関宿を攻めたことが知られ、また「古簡雑纂」の年不詳三月七日付簗田晴助の佐竹次郎(義重)宛書状に「氏康当地江被取懸候」ことを報じ、三月二日に激戦の末北条方を撃退した、とあり、この合戦の模様を語っている。永禄末年から元亀・天正初年にかけては、甲・相・越三国の関係がめまぐるしく変る時期であるが、それに応じて総・武の国境でも激しい事態の展開がみられた。

 永禄十二年閏五月、氏康は謙信との間に誓詞を取交し和睦した。これは、婚姻関係をめぐらして成立していた反上杉のための甲・駿・相の三国同盟が、永禄十年信玄が嫡子義信を自殺させその妻で今川義元の娘を駿河に追い返し西上を目指し駿河へ侵入して崩壊したためであった。それまで将軍義輝や義昭の再三にわたる相・越講和勧告にも応じなかった氏康は以後積極的に越後と交渉を続け、謙信もまた関東での拠点を失いつつあった時期であったからこれに応じさまざまな曲折を経ながらも和睦は成立した。しかし、この間、謙信陣営の佐竹義重とその客将太田三楽斎は北条氏の誠意を疑って講和に反対の態度をとり、信玄もまた元亀元年十二月簗田晴助に誓詞を送り、里見義弘と共に武蔵に出兵して北条氏と戦うことを勧める戦術に出たから、総・武国堺での緊張は容易に解けなかった。しかも、元亀二年十月氏康は病死し、跡を継いだ氏政は同年冬には再び謙信と絶って信玄と結び、相・越同盟はほとんど実効を示さないままもろくも崩壊した。もともと反北条であった里見氏や簗田氏は再び謙信側の勢力として復活した。義弘は北条氏側の千葉氏と上・下総国境付近で衝突し、元亀三年六月には海をはさんで北条氏の領国に面した上総窪田山(君津郡袖ヶ浦町)に築城して北条氏に備えた。一方、簗田晴助・持助父子はついに翌天正元年冬、佐竹氏の援助をたのんで関宿城にこもり、反北条の旗を挙げた。これに対し氏政は北条氏照を先鋒として、「江戸衆・小金衆・臼井の衆・千葉の家来衆は、皆船にて」(『北条記』)二方を川に囲まれた関宿城を攻囲した。この攻防戦は簗田側が佐竹・上杉の援車をあてにして打って出ず、北条側も無理な攻めをしない一方、上杉・佐竹勢は羽生まで出陣しながらも、両者の行動がしっくりいかない面もあって北条方の守りを突破できず、佐竹と北条との交渉に持ち込まれた。翌天正二年閏十一月十日に至って、晴助父子は城をあけ渡して下野国水海へ退き、ここに関宿城は陥落した。こうして長期にわたって古河公方とその宿老簗田氏の勢力圏であった関宿城と猿島郡一帯の地は北条氏の手中に入った。

 以上のように永禄末から天正初年の時期は于余曲折を経ながらも、簗田氏や里見氏が上杉・佐竹の勢力と結んで小田原北条氏に最後の決戦を挑んだ時期であった。この状況の中で岩付城は、かつて古河公方側の反北条の最前線であったと同じように、今度は北条氏側の関宿や里見に対する最前線基地であった。その点に、特に玉縄城主氏繁が岩付領の掌握に当り、領内各地に文書を残すようになった原因を求めることができる。氏繁は時に岩付城に在城したこともあったと考えられる。元亀四(天正元)年(一五七三)二月五日付の関根図書助宛氏繁判物に「今度従関宿勤仕糟ケ辺(粕壁)迄馳合敵討取事」とあるのも、「関宿より勤仕」の具体的内容は不明としても、同年冬の本格的攻撃に先立ってすでにこの時、関宿攻めの前哨戦があり、粕壁で敵を討ち取った関根氏に図書助の官途が与えられたものであろう。また一方簗田持助は元亀二年三月、吉川宿(吉川町)の戸張左近将監宛に「近年担拘之候田地屋敷」を安堵する判物を出している(「戸張家文書」)。戸張氏は下総国葛飾郡戸張庄より起り吉川へ移住して来た土豪で代々簗田氏に仕え、その子孫は現在も吉川町に続いている。同氏が名乗った将監や築後守、河内守、山城守(簗田氏の場合、これを特に名国司と言う)などはいずれも簗田氏から与えられたものである。元亀二年には簗田氏と北条氏との対立はすでにかなり深まっていたと考えられるから、前記判物は、川をへだてて岩付領の越谷に相対し、関宿への舟運上からも重要な吉川に位置する家臣戸張氏への簗田氏の融和策を示しているとも言えよう。なお、簗田氏の水海退去後も、天正三年三月十五日付で持助が戸張氏に吉川宿不入を安堵しているのをはじめ、天正十八年に至るまで戸張氏や赤岩大泉院に文書を発しているから、吉川から松伏へかけての旧下河辺庄の一部の支配権は、北条氏から簗田氏に認められていた。

戸張氏宛の簗田氏の文書

 次に関宿城陥落前後の氏繁の行動をみてみよう。氏繁は関宿陥落を目前にした天正二年十一月五日付で鎌倉鶴岡八幡宮に神鐘雲磐七面を寄進し、同社領足立郡佐々目(笹目・戸田市一帯)郷を安堵した。同社御院家中宛、その添状の中で氏繁は「永々嶋村在陣」と述べている。「嶋村」とは正確な現在地は不明であるが、現在の猿島郡五霞村か、栗橋から幸手に続く地域にあったのではないかと考えられている(この地域は幸手の天神島をはじめ島とよばれる字地が多く、島は低湿地の小高いところの意)。永禄末年から、義氏を支えて、野田の野田氏や幸手の一色氏を動員して簗田氏に対抗していたのは、武蔵滝山城主の北条氏照(氏康二男)であったが、嶋村に在陣した氏繁も氏照と並んで関宿攻めの中軸を担っていたと考えられる。氏繁の岩付領掌握の必然的結果であろう。また氏繁文書中の年不詳五月二日付、会津の簗田氏宛書状には「(敵の)麦作を払い捨てるため、利根川を越えて、今水海という地に簗田在地の戸張(とばり)(付城、砦の意)際(ぎわ)に陣を取っている。作毛は悉く刈取って、今月中には幸嶋(さしま)口に陣を張る」とある。これも氏繁の関宿攻めを物語るものであるが、恐らく前出史料と同じ天正二年のものであろう。氏繁は嶋村を基地として簗田方の水海や更に東進して猿島郡の各地を攻撃し、関宿を背面から脅かす任務を負っていたのであろう。会津の簗田氏は芦名氏に仕えた武士的商人で関宿との関連は不明であるが、北条氏が佐竹氏に対抗して芦名盛氏と結んだ関係からこの書状が出されたのである。芦名氏は伊達氏と並ぶ奥州の名族で盛舜の子盛氏の時、会津黒川城を中心にその周辺一帯を支配下に置き、同氏の全盛時代が築かれた。盛氏は永禄四年に大沼郡岩崎城(同郡本郷町)を築いて移り子の盛興に家督を譲ったが、天正三年盛興の早世により黒川城に復帰した。盛氏は謙信の関東侵入前後から上杉氏と結んでいたが、のち不和となり、永禄十年五月の氏政の申入れに応じて北条氏と結び、武田信玄とも連絡があった。

 氏繁が飯沼城主になったのは関宿落城後の天正三年頃ではないかと思われる。氏繁が嶋村から進撃した幸島口=猿島郡は豊田郡と共に下妻城(下妻市)にあった多賀谷氏の勢力と接する位置にあった。同氏は武蔵七党野与党の出身で結城氏に仕え、結城合戦で同氏没落後関城(茨城県関城町)・下妻城に拠って強勢を振った。北条氏政は、すでに永禄十年、十一年、元亀三年の三次にわたり多賀谷政経を攻めたが、政経は佐竹義重の来援を受けてこれを退けている。従って関宿陥落後、北条氏が猿島郡に進出すれば、多賀谷氏と衝突することは必然的であった。『関八州古戦録』巻十によれば氏政は関宿落城の翌年(同書では甲戌の年としているが乙亥=天正三年の誤りであろう)伊勢貞運に命じて湯田村(岩井市弓田)に築城させて近辺の米穀を悉く取り入れさせ、更に「飯沼ノアナタニアリシ天満天神宮ノ社ヲ焼払テ其地ニモ城ヲ築キ件ノ兵糧ヲ船ニテ城内ヘ運漕ナサシメ」た、と弓田・飯沼両城築城の模様を語っている。飯沼は下総国岡田郡と猿島郡の間にあった巨大な沼で、近世に飯沼落堀(おとしぼり)を築いて涸渇させ新田を開発するまでは、その周囲を二四もの村落が取りまいていたという。飯沼城はこの飯沼の南西縁辺にある逆井(さかさい)(猿島町逆井)の地に築れたと考えられている(伊礼正雄氏による)。『関八州古戦録』は先の記述に続けて、多賀谷政経が岡田原(石下町岡田で弓田・逆井にほぼ等距離)に出城を構えて逆襲し、ついに勝って猿島を切従え、敗れた北条勢は関宿へ逃げ帰った、と記している。猿島の地をめぐって関宿から進出して来る北条勢と、多賀谷・佐竹勢との間に一進一退の激戦がくり返されたのであろう。同書には氏繁の名前は見えないが、彼が飯沼城主となったのは前後の事情から、関宿陥落後のそれほど遅くない時期であろうと思われる。それは、岩付領掌握から関宿攻めへの参加という武総国堺付近で氏繁が占めて来た北条一族内での立場からの必然的帰結であった。

関宿城跡

 天正五年(一五七七)氏繁は、氏政の命により飯沼城主として佐竹義重と対陣した(「小田原編年録」所収北条氏系図ほか)。杉山博氏は北条氏繁文書中の丑十月二十二日の日付を持つ森木工助宛判物(「森文書」)は、従来永禄八年(一五六五)乙丑のものと考えられて来たがそれでは氏繁という署名はおかしく、天正五年丁丑のものであろうとされている(『藤沢市史』第四巻)。同判物の中で氏繁は「当城取立候処」として、北条氏が職人衆として厚遇した藤沢の森氏に「大鋸(おおが(だいぎり))二紘」の借用を催促している。杉山氏によれば、当城とは『新編相模国風土記稿』の言う如く玉縄城ではなく飯沼城であり、氏繁が佐竹氏との対戦から同城の修築に迫られて、はるばる藤沢の森氏宛に大鋸の徴用を命じたものであろうとされている。そう考えると、「新地与云無際限用所」であるから大鋸を、「一刻も早々可借候」という同判物の文言に、佐竹・多賀谷の勢力と対峙している飯沼城主氏繁の緊迫した感情をなまなましく感じ取ることができよう。

 翌天正六年(一五七八)六月、氏繁は飯沼在城のまま病没した。四三才だったという。佐竹氏との決着はこの時までにつけられなかった。氏繁死後は当然のこととして、彼が飯沼城主になった前後から、岩付領は再び小田原の直接支配下に入っていた。