岩付衆中村右馬助

318~323 / 1301ページ

天正七年(一五七九)、岩付衆の中村右馬助は小田原に召出されて、中村主計助と対決をした。それは右馬助が使っていた陣夫一人を、主計助が自分のものであると、小田原に目安(訴状)を捧げたためであった。陣夫とは、戦時に武器食料その他合戦に必要な物資を運搬する人夫のことで、戦国大名の被官は、それぞれの所領に応じて一定数の陣夫を持つことを義務づけられていた。陣夫は平時には土豪や有力名主の農業経営に使役される労働力でもあったから、その帰属をめぐって中村主計助は、わざわざ小田原まで訴えたのであろう。

 訴えを受けた小田原の北条氏は、両者を直接対決させたのち、次のような裁許(武州文書市史(三))をした。

 関根織部百姓中村主計助状を捧るについて、中村右馬助召出し対決畢(おわん)ぬ。然して右馬助召仕う陣夫の事道也(氏資)出し置く証文は、これ無く候と雖も、道也討死以来仕い来る儀候の間、彼歩(夫)壱人自今以後相違無く召仕うべき旨仰出さるるもの也、仍て件の如し、

       (虎印)

     己        評定衆

  天正七年六月十日     上野介

     卯           康定(花押)

   岩付衆

     中村右馬助殿

 

訴えた主計助の敗訴に終ったわけである。主計助がどういう人物であったかは明らかではないが、右馬助については、麦塚の中村家家譜(市史(三)九七〇頁)に

 (前略)朝武 岩松丸改右馬介(ママ)

   天正十七丑年十月廿五日卒

    (中略)

 正忠 岩太郎 後藤兵衛又改弾正

   天正十四丑(ママ)年麦塚村に居(後略)

とあり、この朝武が岩付衆中村右馬助に当ると考えられる。武州文書によると、天正七年の中村右馬助宛の北条氏印判状は、「麦塚村吉兵衛所蔵」とされており、朝武の子正忠が天正十四年に麦塚村に居住したという家譜の所伝とも符合する。ただし、吉兵衛の名や岩付衆についての記載は家譜中に見られない。またその他の史料にも中村右馬助については見えないから、彼がどの位の貫高や軍役であったかなどの点については不明である。しかし、当時中村右馬助が越谷市域ないしはその近辺に居住していたことは認められよう。

中村右馬助宛の北条氏印判状(内閣文庫蔵)

 では中村主計助はなぜ訴訟に敗れたのだろうか。さきの印判状にもある通り、彼は「関根織部百姓」として北条氏に把握されていた。北条氏の言う「百姓」とは、北条氏あるいは北条氏の被官に年貢を負担する農民のことである。つまり主計助は岩付衆として北条氏に臣従していたと思われる関根織部の私領に属する百姓であった。これに対し右馬助は印判状の宛名人であり、「岩付衆」と明記されているように、北条氏から知行を与えられた被官だった。北条氏は、岩付衆として自己の被官に組み込んだ者の利益を擁護して一件を処理したわけである。天正三年二月には、北条氏は足立郡大谷郷(上尾市)の給衆岡新五郎ら三名に印判状を発し、柏原某の再度にわたる訴えを退けて彼等の給田を安堵した。土地の支配をめぐっても、同じような争いがあったことが知られる。

 ところで、以上の二つの印判状は、その形式から、北条氏の他の印判状と区別されて、虎裁許印判状と呼ばれることがある。小田原へ目安が捧げられた問題、あるいは小田原が直接裁くことを必要とした重要問題について小田原で組織された評定衆が北条氏のもとで審議を加え、裁決を下したものがそれである。従って、この虎裁許印判状の内容を検討することによって、北条氏がその各支配地域でどのような問題に取り組まねばならなかったかを知ることができる。北条氏が武蔵国へ発した虎裁許印判状は現在までのところ一一通が知られている。そのうち、前記の二通も含めて、実に九通が岩付領に集中している。それは第一に、印判状の時期が、元亀三年に始まり天正七年に終る通り、氏房幼少のため小田原が岩付領を直接支配した時期であったためであろう。第二には、単に小田原の直接支配によるばかりでなく、氏資の突然の死により、新たな支配者となった北条氏の岩付領支配が、かなり不安定なものであったことがそこに露呈している。前項の氏繁の掟書も、そのような状況の中で出されたものである。ではその不安定さをもたらした要因は何であろうか。それは、天正三年と七年の両印判状が示しているように、岩付領においては、陣夫の支配にしろ給田の支配にしろ、ともに北条氏が知行を与え、岩付衆・給衆として家臣団に組みこんだ者と、その組織からはずされた者との間に激しい競合があったことによっている。

 給衆と百姓との間には支配する者とされる者という天地の隔りがあるが、在地における現実の存在としては両者の間にそれほど大きな差はなかったと思われる。その差は、在地での農業経営の規模の違いであり、百姓として北条氏に把握された者の中にも、土地と人間の支配をめぐって給衆と十分に対抗できる力を持つ者もあったのである。彼らは、北条氏給衆と競合したばかりでなく、しばしば寺領侵犯にも及んだことは前述の通りである。

 このような、北条氏の給人と在地有力農民との対立が、最も大規模な形をとって爆発した著名な事件が、右馬助の件の翌年、天正七年に鳩ヶ谷で起っている。同年五月二十日付の北条氏裁許状によれば、この年、北条氏の給人笠原助八郎の私領内の農民たちは助八郎との間に紛争を起し、連名で血判までして領内を退転してしまった。問題は小田原に持ち込まれ裁判となった。北条氏は「領主に非分があれば小田原へ訴えるべきところ、そうしないで一勢に領内を退転するのは刎頸(ふんけい)(斬首)にすべき重科であるが、取持人が誓詞を差し出したので、その筆頭にあがっている鈴木勘解由のみを処罰し、鳩ヶ谷百姓船戸大学助らは赦免する」という判決を下した。

 この事件は、岩付城主や小田原へ直接抵抗したものではなかったが、北条氏が知行を与えた者への極めて組織的な抵抗であり、このような動きが領内の各地へ広がれば、岩付の軍事力そのものが麻痺してしまう恐れがあり、北条氏にとっては軽々しく見過せない事態であった。しかし北条氏もまた、天正七年という段階では、在地の農民を直接掌握していたわけではないから、事件の規模の大きさと、北条氏自身の強い文言にもかかわらず、退転参加者の中からわずかに首謀者一人の処罰にとどめざるを得なかった。

第5表 武蔵国北条氏裁許印判状
年月日 宛所 奉行人 備考
1 永禄11年2月10日 小窪六右衛門 飛弾守泰光 武州文書高麗郡
2 元亀3年6月22日 宮城四郎兵衛尉 勘解由左衛門尉康保 豊嶋宮城文書
3 〃 3年10月16日 三保谷 鈴木    〃 鈴木家文書(鴻巣市)
4 〃 4年12月10日 すな原百姓中    〃 武州文書足立郡
5 天正2年6月21日 大宮社人中    〃 武州文書足立郡
6 〃 2年9月10日 保正寺 四郎左衛門尉康保 武州文書足立郡
7 〃 2年9月10日 閼伽井坊    〃 武州文書足立郡
8 〃 3年2月21日 大谷郷給衆中 笠原藤左衛門尉 武州文書足立郡
9 〃 7年6月10日 岩付衆中村右馬助殿 上野介康定 武州文書埼玉郡
10 〃 7年6月20日 鳩ヶ谷百姓船戸大学助 下野守康保 武州文書足立郡
11 〃 14年12月25日 鈴木但馬守とのへ 上野介康定 武州文書都筑郡

 北条氏治下の農民の抵抗の形としては、「欠落(かけおち)」と「退転(退散)」という二つのタイプがあることが知られている。前者は比較的下層の農民が領主の年貢増徴や夫役の増大に対して個別分散的に逃散し、その多くは領主支配のゆるやかな都市へ逃げ込むものである。これに対して北条氏は「人返し」は「御国法」であるとして、領主が逃散者を探し出して召返すことを認めていた。一方、後者は鳩ヶ谷の例にみられるように、上層農民の指導の下に、郷村単位に集団的に逃散、耕作放棄することによって領主の支配の緩和を求めるものであり、組織的な反抗である点に特徴があった。北条氏はすでに早く天文十九年(一五五〇)相模・伊豆両国で「国中諸郡退転」といわざるを得ないほどの状況に追いこまれている。この時北条氏は、従来の諸公事を一切赦免して年貢を村の貫高の六%に統一し、領主(北条氏の給人)の非分の課役を禁じて百姓の直訴をすすめ、百姓の借銭・借米を免ずる、といった一連の措置を取っている(『相州文書』)。また武蔵でも、鳩ヶ谷の事件と同じ天正七年に小山村(入間郡坂戸町)の「百姓中」が、河越城からの夫役徴収を拒否して退転し、滝山城主北条氏照に虎印判状によらない河越城の夫役徴発は非分であることを認めさせている(『埼玉の中世文書』)。

 鳩ヶ谷の場合も、紛争の原因を明らかにする史料は残されていないが、その組織性の高さからみても、郷村全体に関わる何らかの負担をめぐって衝突が起ったことは容易に推測されよう。また北条氏が首謀者一人を除いて全員を赦免した処置の背後には、負担についての譲歩もあったのではないかと思われる。

 しかし、他方では、天文十九年の退転をきっかけに、むしろ北条氏は給人に対する支配を強化して、かえって相・豆二州での大名権力を確立した、と理解されているように、岩付領でも、中村右馬助や笠原助八郎のような給人に対する北条氏の支配力は強化されていった。同時に給人の側からすれば、北条氏の権威=公儀の力を借りることによって、激しく迫い上げて来る在地の有力百姓との競合に勝ち抜くことができたのであった。

 太田氏にとって替って岩付領の支配者となった北条氏は「道也の証文」を判決の基準として先例を重んじ、給人の既得権を保証する姿勢を見せて彼等の北条氏への依存度を高め、さらに百姓に給人への訴訟を禁じ小田原への直訴を勧めて給人支配下の百姓へもその権威を及ぼして行こうとしたのであった。したがって、虎裁許印判状が、岩付領に集中する永禄末年から天正七年にかけての時期は、岩付城主の交替にともなう岩付領の混乱期というよりは、同領において北条氏が在地有力者の競合関係を巧みに利用して大名権力を確立して行った時期と言えるであろう。