永禄十年(一五六七)九月十日に氏資が上総三船台で敗死したのち、永禄末から天正初年の氏繁の支配をはさんで、岩付城は小田原の氏康、氏政に直接支配された。氏資の娘と氏政の子十郎氏房の婚儀は、永禄七年七月二十三日の資正追放直後に成立していたと思われるが、氏房が太田氏を名乗り岩付城主として行動しはじめるのは、天正十年(一五八二)頃からのことである。氏資の敗死から、一五年余の歳月が流れている。氏房の岩付入城とその具体的状況は現在不明であるが、天正十一年七月二十八日に岩付領内比企郡井草(同郡川島町井草)百姓中にあて棟別銭納入を厳命した印判状を発給しているから、それ以前天正十年~十一年七月以前には岩付城主となっていたことは確かである。ときに氏房は一八、九歳であったと考えられる。
この間、関東の状勢は大きく変った。関東支配を巡って長期にわたって抗争を続けた上杉謙信は天正六年(一五七八)正月、最大の規模で関東出陣を触れながら、進発直前の三月九日に急死した。永禄十二年の越相講和に際して謙信の養子となっていた氏康の子氏秀(景虎と名乗る)は同じく養子の景勝との戦に敗れ翌七年二月には自殺したものの、景勝もこの頃から国内土豪の背反や、北陸に手をのばし始めた信長勢力への対処に忙殺され、謙信の目指した関東平定に手をつけることはできなかった。
一方、天正元年の信玄急死後その跡を継いだ武田勝頼は、上杉景勝にくみして北条氏と対立したが、氏政は織田信長と結び、天正十年の武田氏滅亡を側面から援助した。こうして、氏房が岩付に入城した時期は、北関東にあって依然として敵対した佐竹義重やその与党多賀谷氏などを除けば、関東での反北条勢力はほぼ駆逐され、それまでになく安定した支配が確立したといえる。これ以後、北条氏が直面した間題は、治下の百姓による逃散や年貢滞納、諸役拒否などの抵抗が相模一帯で広がりつつあったことである。
では、この時期、岩付城に入った太田氏房の領国支配はどのようなものであったろう。
まず岩付領における家臣団支配についてみてみよう。北条氏政は天正五年(一五七七)閏七月からの結城城攻めに際し、その前月の七月十三日、岩付衆に出陣を命じて「岩付諸奉行、但今度之陣一廻之定」という掟書を発した(『豊嶋宮城文書』)。これは氏房入城以前のものではあるが、岩付城の家臣団構成と軍事力を知る上で好史料であり、氏房以後においても大差ないものと思われる。ここに記された諸奉行と兵数は表の通りである。
数 | 奉行 | |
---|---|---|
小旗衆 | 120余本 | 中筑後守・立川藤左衛門・潮田内匠助 |
鑓衆 | 600余本 | 福嶋四郎右衛門・豊田周防守・立川式部丞・春日与兵衛 |
鉄炮衆 | 50余挺 | 河口四郎左衛門・真野平太 |
弓衆 | 40余張 | 尾崎飛弾守・高麗大炊助 |
歩者衆 | 250余人 | 山田弥六郎・川目大学・嶋村若狭守 |
馬上衆 | 500余騎 | 渋江式部太夫・太田右衛門佐・春日左衛門・宮城四郎兵衛 小田掃部助・細谷刑部左衛門 |
歩走衆 | 20人 | 馬場源十郎 |
計 | 1,600余人 |
これによれば、その総兵力数は一五八〇余となり、これを二〇名の奉行が統轄していたことがわかる。岩付の兵力は俗に「岩付三千騎」(前島康彦氏)といわれているが、それほどではないにしても兵粮や軍事物資の運送等に従事する陣夫などを加えれば二〇〇〇を越えていたであろう。ただ『鎌倉公方九代記』で永禄三年三月の謙信の関東侵入に際し「先陣は太田美濃守入道三楽(資正)三千五百余騎」とか、永禄七年の国府台合戦には「太田美濃守入道は(中略)我子郎等二千余騎」としているように、資正の段階で、太田氏単独の力で二、三千騎の兵力を持ち得たとは思えない。『北条五代記』では国府台合戦に「太田みのゝ守は二百騎計(ばかり)にてはせ参し」としているほどである。一五〇〇を越える兵力を岩付城が動員できるようになるのは、やはり、同城が北条氏の手に入り所領役高に応じた軍役を統一的に岩付衆に賦課するようになって初めて可能となったと見なければならないだろう。
さて、二〇名の奉行衆を見ると、この掟書の受取人である宮城四郎兵衛尉(泰業(やすなり)であると考えられている)は馬上奉行として他の五人とともに五百余騎の馬上衆の指揮を任されていた。彼はまた陣庭(じんば)奉行、篝(かがり)奉行、小荷駄奉行を兼ね、全奉行衆中トップクラスに属する扱いを受けている。先に触れたように、同氏は元亀三年一月九日北条氏政から着到を改定され足立郡南部を中心とする地域に二八四貫四〇〇文の所領を認められたのに対して、歩弓侍一人、歩鉄炮侍二人、馬上侍七人、自身一人の計十一人の侍、大小旗持三人、指物持一人鑓(やり)持一七人、歩者四人の計二五人の兵、合計三六人の軍役を課せられた。しかも同状では「自身具足、甲大立物(かぶとおだてもの)、手盖面肪(てがいめんぼう)、馬鎧金(うまよろいきん)」と宮城氏の軍装を詳細に規定し、歩弓侍の指物は「志ない地くろニあかき日之丸一ツ」、鑓は「二間の中柄」というように宮城氏の率いる兵力全体の軍装を指定している。このような軍装にまで及ぶ綿密な支配は、検地を通じて家臣の所領を確定し(岩付領では永禄十年に原宿、天正五年に府川、同六年に三保谷で検地が行われた)、貫高に応じて軍役をかけることによって可能となったのであり、一五〇〇を越える兵力の動員もそのことに裏打ちされているのである。
ところで宮城氏は、前述の通り太田資正、あるいは左京亮全鑑を資時と同一人物とすれば、資時以来の岩付城家臣であったが、他の奉行衆中にも、潮田(うしおだ)、春日、川(河)目、細谷等北条氏の岩付支配以前から太田氏の家臣であったと思われる者が多い。一方鑓奉行の福嶋四郎右衛門については『小田原衆所領役帳』中に同名の者が玉縄衆として三七貫余文の役高を持っているが、同一人物かどうかは不明である。また同衆中に福島左衛門が二三〇貫五百文の役高を持って同帳に記されているが、これは福島(北条)綱成の弟ではないかとも見られている。鑓奉行福島四郎右衛門は詳細は不明としても、北条氏の岩付獲得後、北条氏によって同城に入れられたとみることは可能であろう。のちに天正十四年、太田氏房が大相模不動に禁制を発するが、その奉行人となった福島又八郎も四郎右衛門とつながりのある者であろう。太田氏房が岩付城に入城すると、北条氏政に仕えた伊達与兵衛房実(ふさざね)が氏房に従って岩付城付の家老となり、氏房の多くの印判状の奉行人となったことからしても二〇人の奉行衆中、北条氏の家臣から岩付入りした者も多かったと思われる。
旧太田家臣と、北条家臣の二つの流れをくむ岩付城諸奉行のもとで、その兵力となったのは、元亀三年に宮城氏と同日付で軍役を改定された道祖土図書助や鈴木雅楽助である。道祖土氏は二五貫文の貫高に対して三人、鈴木氏は八貫一五〇文に対して二人の軍役を課されている。この三氏に対する改定着到状は「右着到分国中何(いずれ)も等申付候」という共通した文言を持ち前年十月に氏康が没し氏政が北条氏を継いだことに伴って分国中の着到を改定したときのものである。当然、岩付領内にこの他にも同様の文書が小田原から発給されたであろう。
道祖土氏、鈴木氏の貫高は宮城氏とくらべるとはるかに低いのであるが、天正七年(一五七九)七月八日にそれぞれ二人の軍役を課せられた比企郡の金子越前守、同中務丞(ともに貫高は不明)、天正十一年九月十六日に一八貫五〇〇文の地に対して三人を課せられた同郡の小熊総七郎などと並んで、宮城氏他の奉行衆に率いられた馬上衆五〇〇人の中に含まれる階層であったと思われる。彼らはまた、岩付城を中心に北条氏によって組織された岩付衆の中核的存在であったろう。越谷に居住した中村右馬助も北条氏から「岩付衆中村右馬助殿」と呼ばれ、陣夫の使役を認められていたのだから、貫高や軍役規模は不明としても、同じ階層に属するものと見られる。
この階層の者が北条氏の支城に軍事力として組織されていた様子をはっきり知ることのできる史料に、鉢形城主北条氏邦が天正十六年二月二十五日付で秩父孫二郎に宛てた印判状がある(『埼玉の中世文書』)。これは秀吉との対決が迫りつつある状況のもとで、氏邦が秩父衆の軍役負担を詳細に規定したもので、その内容は第7表の通りである。ここでは、岩付衆に対する掟書よりも更に細かく二人、三人ずつの軍役を負う者の名前を明記していて、岩付領における鈴木氏、金子氏、小熊氏や中村氏の規模に当る者が明かに鉢形城の兵力に組み込まれていることを示している。更に「折原衆」の中の四騎は「壱騎合の衆」と呼ばれ、その記載から複数ではなく自身単独の軍役がかけられていたものと思われる。また「嗜(たしなみ)衆」の中には室新四郎外五名の「歩弓」が含まれ、その中には木助・与左衛門といった明かに農兵とわかる無姓の者までが記載されている。この両者は鉢形領における軍事力の最底辺を形成するものであり、岩付領でもこのような形で岩付城に組織された者が広範に存在したであろう。
馬上 | 鉄砲 | 弓 | 鑓 | 小旗 | 手振 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
騎 | 挺 | 張 | 本 | 本 | 人 | 人 | |
秩父本隊 | 23 | 3 | 13 | 33 | 6 | 3 | 81 |
嗜衆 | 6 | 0 | 5 | 6 | 0 | 4 | 21 |
折原衆 | 4 | 10 | 3 | 20 | 0 | 0 | 37 |
計 | 33 | 13 | 21 | 59 | 6 | 7 | 139 |
杉山博「武州鉢形城主 北条氏邦」より
鉢形領にはこの外、氏邦の文書から荒川衆、小前田衆、猪股衆などと呼ばれるものがあったことが知られている。いずれも在地土豪や小領主を中心とする小規模な家臣団である。現在大里郡花園村にある持田家は、氏邦によって荒川衆の筆頭にあげられた家柄であるが、同家に現在まで伝えられた氏邦文書(「持田家文書」)などによると、荒川衆は「むねへつ御しやめんの上ハ、いつれも大途之御ひくわんたるへく候間」とあり、在地土豪が北条氏から棟別銭を免除されて「衆」として被官化したことがわかる。また、持田四郎左衛門は、自身は馬上、「同人者」とされた二人の農兵には鑓(やり)を持たせることを氏邦から規定された上、「彼衆は何時も鉢形籠城をなすべく候間、触口・かい(洞貝)次第、諸道具を持ち集るべきこと」と命ぜられていた。道祖土氏以下の岩付衆の中核をなした階層も宮城氏などの奉行衆とくらべて在地性が極めて強かったと推測され、平時には支配下の百姓を使役して直接農業経営に従事し、いったんことあれば、兼て北条氏に課されていた軍役に従った諸道具を携え、農兵や陣夫を率いて岩付城に駆けつけたのであろう。
これらの岩付衆のうち、北条氏は道祖土氏のように旧太田氏以来在地で伝統的な勢力を誇った名族を岩付領内での御領所(直轄領)の代官に任じた。岩付領内での代官職については永禄十年、三尾谷・戸森の代官に道祖土氏が任ぜられたのを初めとして、左記の例が残されている。年未詳の松田氏の場合を除いて、いずれも直接小田原から虎印判状によって代官職が宛行われている。そのことと、府川、三保谷のものには明瞭に「御領所」という文言がみえることから、杉山博氏は他の地についても「いずれも岩付領下にあった本城主の直轄領であった」とされている。しかし、岩付領で代官職に関る虎印判状が出された永禄十年から天正六年に至る時期は、同領が太田氏資の戦死によって小田原の直接支配を受けた時代に完全に含まれ、また後に岩付城主氏房が三保谷、八林から岩付城修築の人足を動員したり、「御領所糟壁」の諸役を免許していることからすれば、岩付領での御領所は他の地域とは異なり、北条氏が幼少の氏房のために設けた、いわば岩付城付きの御領所とでも言うべきものであったのではなかろうか。御領所年貢ばかりか、軍需品の竹木までが岩付御蔵に納められているのは、そのような岩付領での御領所の持つ性格の表れであろう。北条氏はこれらの御領所代官の多くに道祖土氏にみられるように、旧太田氏の先臣をそのまま任命した。太田氏の先例を重んずる、という北条氏の岩付領支配方針からの当然の帰結であった。氏房の岩付領支配は、この御領所と代官を軸に強化されて行った。
さて、天正十年頃から岩付城主となった太田氏房は、天正十二年(一五八四)三月十一日、借銭の催促使を自領内で殺害して菖蒲領に逃亡した豊田和泉守の知行を没収して改易し、見つけ次第討殺すべきことを宮城美作守(為業)に命じた(『豊嶋・宮城文書』)。領内での紛争に対する岩付城主太田氏房の強権の発動である。翌十三年正月には岩付城下の勝田播摩守に対し聟名跡を承認し、同十五年には勝田大炊助に箕輪(みのわ)下の開発地六貫文を与え、代りに鉄炮壱挺足軽壱人の軍役を課している。また天正三年十一月十五日には、宮城美作守に掟書を発し「(岩付城)中城車橋内戸張之番」を命じた(『豊嶋・宮城文書』)。この掟書によれば宮城為業は、岩付城の中心部をなす中城の番を命じられ、中城に通ずる車橋にある番所に「常詰」して番衆を指揮した。更に氏房は、「惣構(そうがまえ)の儀は、此の度は其方に相任す」として為業に惣構の警固も任せている。岩付領での宮城氏の地位の高さを示す史料である(同掟書には、構番の外の者は一人も車橋より内へ入れてはいけないとか、門は七ッ半時=午後五時に閉じよなどと記され岩付城の実態を知る上でも貴重な史料となっている)。しかし、この間にも天正十一年に小熊総七郎、同十三年に道祖土図書助以下四人の着到が北条氏政によって改定されている。この段階では軍役改定は依然として小田原本城の権限に属していたわけである。
地名 | 代官 | 出典 | |
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三尾谷・戸森(現比企郡川島町) | 道祖土図書助 | 永禄10・9・晦 | 北条氏印判状(道祖土家文書) |
原宿(現入間郡日高町) | (平林寺)安首座 | 永禄10・9・晦 | 〃 (平林寺文書) |
野本(現東松山市) | 恒岡安首座 | 永禄11・3・27 | 〃 ( 〃 ) |
府川(現川越市) | 竹谷源七郎 大野縫殿助 |
天正5・4・26 | 〃 (武州文書入間郡) |
三保谷(現比企郡川島町) | 道祖土土佐守 | 天正6・4・7 | 〃 (道祖土家文書) |
八林( 〃 ) | 松田 | 年不詳9・27 | 給人衆知行書上( 〃 ) |
注 (天正17.3.24深井藤右衛門・他宛太田氏房印判状に「御領所糟壁」とあり。代官は不明)