農民支配

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氏房の文書は現在まで六〇点以上伝えられているが、かねてから「特に人夫徴集・兵粮集めと人質の文書が多い」(杉山博氏)ことが注目されて来た。以下では人夫徴収を中心に氏房の岩付領での農民支配の進展をみてみよう。

  「武州文書」などから、岩付領での人夫徴集の史料を拾ってみると次の如くである。

 (1) 天正12・2・8 八林道祖土図書分及び井草細谷三河守分百姓に箕田郷(現鴻巣市)の堤の人足を命ず

 (2) 天正14・2・6 八林道祖土分百姓に岩付城普請の人足を命ず

 (3) 天正14・6・11 道祖土図書助に三保谷郷の全男子を岩付城普請に出すよう命ず

 (4) 天正15・2・6 道祖土図書助に小田原城普請の人足徴発を命ず

 (5) 天正15・3・19 井草細谷分百姓に岩付城普請の材木運搬を命ず(『新編武蔵風土記稿』)

 (6) 天正15・10・18 太田窪(現浦和市)千葉領百姓中に岩付城修築を命ず

 (7) 天正15・10・28 井草伊達分百姓に岩付城諸曲輪破損の修築を命ず

 (8) 天正16・1・6 井草百姓に岩付城外構修築の人足を命ず

 (9) 天正16・3・20 道祖土図書助に岩付城修築の監視のため同城在城を命ず

 (10) 天正18・2・12 道祖土図書助に岩付城普請のため一間(軒)一人ずつの人足徴発を命ず

このように氏房は岩付城普請を軸として、荒川堤築造、小田原城修築などに八林、三保谷、井草、太田窪の各地の百姓を人足として連年動員している。人足は鍬・簀(み)・もっこなどを用意して人数・期限を指定され奉行の指示によって労役に従事した。指定に反して一日遅参したり、一人不参した場合は過失として五日宛あるいは五人宛の割増負担が課された。氏房がこれを「惣国の法」であるとしている通り、相模国内で小田原城修築の人足を徴発した際にも同様の規定が行なわれた(『相州文書』)。ここには、先にみた岩付衆への軍役規定に通ずるような過酷な人夫動員をうかがうことができる。

 このような、連年にわたる百姓の動員はどのような状況のもとに可能となったのだろうか。それは先ず第一に、前記の人足動員対象地から明らかなように御領所が動員のテコになっていたと推測される。太田窪を除けば、前記の各地はいずれも現在の比企郡川島町の中で旧岩付太田氏の重要な伝領地であり、北条氏が岩付城を支配するようになると御領所として代官が置かれた土地であった。天正十四年六月の岩付城修築に三保谷郷に人足を動員した際には「男その郷に一人も残さず、悉(ことごと)く代官が召連れ」ることを命じ、「もし罷り出ざる者」があったら「即ち代官を召上げる」と道祖土氏に厳命している。更に「何(いずれ)の御領所方も」という文言から、この時の動員令は三保谷以外の領内各地の御領所にも及ぼされたのであろう。直轄領百姓を代官を通じて強力に労役に動員し、更にそれを代官や知行人の私領にまで拡大して行くという支配の方向がとられたと考えられる。第二には、本来は小田原本城の修築や、小田原の命により行う大土木工事のために北条氏が分国内に課した大普請が巧みに利用されている点が注目される。すでに岩付領が小田原城の直接支配下におかれていた天正四年(一五七六)六月二十三日、北条氏は井草百姓中宛に虎印判状を発し「関宿破損の普請の用」として「丙子「天正四年)大普請人足三人十日」のうち、春に四日だけ小田原の伊勢氏(『所領役帳』では御家門方)の命により召仕われたので、残りの六日分を七月二日から七日まで関宿城普請にあてることを命じた。太田氏房もこのやり方を引き継ぎ、天正十二年井草百姓に箕田郷堤を築かせた際の印判状で「去年未歳の大普請人足五人、御用無きにつき」としてその分を微発し、また同十四年八林道祖土分百姓に岩付城修築の人足を徴した時、「寅歳(天正十八年)の大普請人足壱人、先に借りなされ召仕われ候」と、四年後の大普請人足のうちから前借りして徴発しているのである。

北条氏着到状(道祖土家文書)

 天正十七年(一五七九)三月二十四日、太田氏房が「御所所糟壁(粕壁)、前々の如く諸役免許おわんぬ」としたとき「但し大普請并(ならび)に棟別の事は、定めの如くこれを勤むべし」とあり、御領所といえども大普請と棟別銭は免除されなかったことが知られる。『相州文書』愛甲郡所収の内藤大和守(景豊)が三増(みまし)、半原(はんばら)、角田(すみだ)川入の三ヵ村百姓中に宛てた年不祥〓(寅)五月二十四日付津久井城普請人足積り」という印判状には「我々自分の様(用)にはこれ無く候、御大と(途)のため城ふ志んの儀」という文言があり、大普請とは大途(北条氏)のための城普請から起った言葉ではないかと推測される。そうであるならば「分別致し走廻るべく候、若し不参者これあらば、強儀を以て押立べく候もの也」と続く文言に大普請を知行人の意志(私)を超えた大途・北条氏の図らい、いわば「公儀」の意志として押出し知行人やその配下百姓を労役に動員して行った北条氏の強権をうかがうことができよう。

 太田氏房が岩付領で大普請の振り替えや先取りによって百姓を人足として動員したのも、北条氏の直轄支配を引き継いだ氏房が小田原本城の権威を人足動員のテコとして利用したのであった。

 しかし、天正十五、六年の岩付城修築の人足徴発を命じた氏房の印判状には、もはや「大普請」の文言は一切見られなくなる。氏房の支配が小田原の権威を借りる必要がないほど強化され、岩付城主氏房そのものが岩付領での公儀になったと言うことができよう。

 ただし、氏房の権威の確立は、岩付領内部での岩付城主による支配が単に自然的に発展した結果ばかりとはいえない。それは後述するように、信長に代って戦国統一に乗り出した豊臣秀吉と小田原北条氏との対立が天正十五年七月の秀吉の九州平定によっていよいよ決定的な段階に入ったことにも強く影響されていた。この年七月晦日(みそか)、北条氏は相模・武蔵の直轄領と重臣の私領に印判状を発し、各郷において侍・凡下(ぼんげ)(侍身分以外の百姓など一般民)を選ばず、(秀吉との対戦で)必要になった時、召仕うことのできる者の名を書き出させた。道具は弓、鑓、鉄炮のうち何でも、また「腰さし類之ひら/\武者めくやうに」支度をすべきことを命じている。北条氏は郷村の百姓を兵力として動員をはかっていることがわかる。

 武蔵国内では、川越城配下の大袋(現川越市)小代官・百姓中、大井(現入間郡大井村)小代官・百姓中などに宛た同印判状が残っているが、岩付領ではこれより少し遅れた八月七日付で道祖土図書助宛にほとんど同じ内容を持つ太田氏房の印判状が出された。同年十月から翌天正十六年にかけての岩付城修築は、このような状況の中で行われたのであり、そのための人足動員は勢い強圧的にならざるを得なかったであろう。両年の氏房印判状から「大普請」の文言が消えたのは、氏房権力の発展を物語るとともに、その発展は北条氏が秀吉との対決を想定し準備する中で促進されたものであったことを意味している。

 なお、天正十五年七月晦日付の共通の文言を持つ虎印判状は武・相両国に一五通以上発せられたことが知られているが、その宛所はいずれも地名のあとに小代官・百姓中と記しでいる点でも共通している。小代官とは中丸和伯氏によれば、郷村の階層関係を利用して(郷村支配を円滑に行うために)北条氏が百姓の中から任命した職制で、武士身分の代官に対する言葉であるという。北条氏の文書に小代官の称が見えるのは永禄四、五年頃(「相州文書」)からのことで、小代官は小田原城や玉縄城への反銭・棟別銭の納入を始め、城米銭・竹木等から所によっては鯛などに至るまでの郷村の諸負担の完済の義務をその地の百姓中と共に負わされでいた。〓(永禄九年)八月二十三日付で田名(現神奈川県相模原市)名主・小代官・百姓中に同年の棟別銭納入法を指定した虎印判状では「当年改めて名主小代官を(宛名に)指(差)加えらる。その故(ゆえ)はその郷の是非は、地頭代官の前にこれあり候間、相定める分銭厳密に調(ととの)え候ように百姓に力を合せ、堅く申付け、日限の如く皆済致すべきもの也」と述べている。

 小代官が、代官と複雑な階層を含む当時の百姓との間にあって、北条氏が郷村に課した諸負担をスムーズに吸収するために設けたものであることをよく示している。武蔵で小代官が置かれたのは、前記の入間郡内の二つの地の他に、入間郡、多摩郡、橘樹郡、久良岐郡などの各郡内に置かれていたことが知られている。それらの多くは『小田原衆所領役帳』に記載された地であり、川越城、玉縄城や小机城などの支城の支配に属するものであった。これに対し、岩付領においては、現在までのところ天正十五年以前も以後も、北条氏によって小代官が置かれたという史料は見当らない。地域を熟知した旧岩付太田氏の旧臣をそのまま代官に任じたことや、相模の各地や武蔵の川越城支配下の地ほど郷村の細かな階層分化が進んでいなかったことが、岩付領では小代官を不要としたのであろうか。

 ともあれ、太田氏房は小田原北条氏の権威を背景に岩付領内での豊民支配を展開し、秀吉の関東侵攻の影に脅かされながらそれを強化して行ったと言うことができよう。天正十六年(一五八八)正月五日、道祖土図書助・八林之内百姓中と、鈴木雅楽助・百間百姓中に宛てた氏房の印判状には「岩付御領分兵粮、その郷領主に相改め、来る晦日を切て岩付大構(おおがまえ)の内へ付け越し、寄々(よりより)預け置き、三月に至らば御内儀を得、在所々々へ付け返すべし」とあり、秀吉あるいは関東の秀吉与党との緊張した関係を感じ取れると同時に、「もし妄(みだり)にこれを致し、その郷に一俵も残し置くについては、その領主は重科たるべし」と続く強圧的な言葉の中に岩付城主氏房が達した岩付領支配の段階が象徴されているといえよう。

 太田氏房はこのほか、前述したように天正十四年正月に「押買狼藉」などを禁ずる禁制を大相模不動坊に発し、また翌十五年(一五八七)六月十六日には伊草に所領を持っていた岩付城の家老格の伊達与兵衛房実に「井草宿市の日の事」という印判状を与えた。この中で氏房は井草に一・七(一、七、十一、十七、二十一、二十七日)の六斎市を開くことを定め、その市立(いちだて)のために三年間伊草を諸役不入の地とすることを認めている。岩付領内での商品流通の促進をはかる政策である。

 さらに同年七月十一日には、古い伝統を誇る渋江の鋳物師(いもじ)に「御陰(ママ)居様(天正十一年に氏直に家督を譲った氏政)御証文のごとく」として諸公事を免許し鋳物師職を安堵している。岩付太田氏以来連雀公事を免許された勝田氏への保護は氏房にも引きつがれ、前項でも触れた通り更に強化された。すでに北条氏は天正六年(一説に十二年)小淵(現春日部市)の修験道場不動院に「岩付より沼津まで」の伝馬手形を与え、道中三疋の馬を一里につき一銭という北条氏の公定賃銭を免除して利用することを許している(「武州文書」)。したがって氏房が岩付領内の商工業保護策を打ち出した天正十五、六年頃には、岩付領も網の目のようにめぐらされた北条氏の伝馬制の中に取りこまれていたであろうから、氏房の政策も岩付領内に留まらない意味を持ったであろう。また水海の簗田氏(この頃助縄が当主)も天正十六年二月三日、大泉坊(後に大泉院)に「赤岩新宿不入之事」という制札を出し、「押買狼藉、郷質国質」を禁じ「諸役并につりう(津料カ)」を免じ向こう八年間の諸(役)不入を認めて新宿立てを行っている。

 この前後、越谷とその周辺でもようやく市や新宿が開かれて商品が売買されるだけの経済状態の変化がみられるようになったのである。