増林勝林寺

349~351 / 1301ページ

曹洞宗増林の勝林寺は、天文元年(一五三二)の開山と伝えられる。当寺には第八世竹岩梁松が寛文十二年(一六七二)に記した縁起書がある。これには

    抑当山創立以来之事

  昔時者聖観音道場也云云、下総国葛飾郡百間郷下河辺山中里也、万寿二乙丑歳三月十念日、源勝者一宇之堂於建立聖観世音菩薩安置奉供養也、恵心僧都一刀三礼之御作也、而後源勝死去後年至時嘉禎三丙申天三月、庶人是修造、永々守護也、

  御検地五拾坪堂敷地有、以是大永歳中ヨリ企而粤に岩槻城太田美濃守乗取、渋江殿は合戦中之諸罪滅為菩提涅槃之、寺一宇建立之旨趣有就而、当堂慈恩寺持之観音堂也、是於再興仕度志願専而、天文元壬辰歳八月再建成就円満、改寺号法恩山勝林寺与、御本尊者渋江殿逃散中守本尊十一面観世音菩薩於安座開基仕者也、其後改名須賀小次郎事不分明也、当寺開山黙堂〓契和尚者、須賀君俗血之仁也、故本住職初祖開山也、寛文歳中至当寺大破之砌、諸品共同様如此故、当時八代竹岩梁松代書類集記置云云、

  夫堂舎者建立之後五百余而再興成就也、御開山黙堂和尚天文七戊戌歳四月十二日酉之刻遷化相成、当時入滅之地同開山同開基、新村国之内而香積山福巌寺先建立地也、当寺ヨリ一ヶ年先に建立、御開山ヨリ二世天松、三代南室、四世端州与同暦住、本山開祖大洞大和尚ヨリ拾八歳後開闢之地也、拙僧迄暦数百四拾九歳也、是迄種々申伝候事書記写者也、

   維時寛文十二壬子歳 当時八世竹岩梁松代

    代々後住見聞日々是於書記可置者也

とある。すなわち源勝という者が、万寿二年(一〇二五)下総国葛飾郡百間郷下河辺の中里という地に恵心僧都御作の聖観音を安置した堂を建てた。その後大永年間(一五二一~二八)太田氏と岩槻渋江の土豪渋江氏との間に合戦が行なわれたが、渋江氏は戦に敗れた。戦に敗れて太田氏に逐われた渋江氏は名を須賀小次郎と改名し、戦死者の菩提をとむらうため、当時慈恩寺に所属していたこの観音堂を再興しようと志ざした。これを成就したのが須賀氏の一族黙堂〓契(ぎんかい)である。黙堂は天文元年に観音堂を再建し、新たに渋江氏が守護仏と崇めていた十一面観音を安置し、寺号も法恩山勝林寺と改めた。なお、黙堂は勝林寺のほか、埼玉郡村国(現岩槻市)に福厳寺の開山となっているが、ここは勝林寺より一年早く建てられている。黙堂の法脈は、大洞から出ており、それから数えて現在まで一四九年であるといっている。

増林勝林寺

 はじめに出る葛飾郡百間郷云云は、郡界のはっきりしなかった当時のことなので、この増林の地をさしたものと考えてよいであろう。また、この縁起のなかには、一言も曹洞宗のことが現れないが、ここに出てくる大洞は、大洞存〓といって曹洞宗伊豆最勝院系の永平下十一世の僧である。つまり天台宗慈恩寺の系列にあった勝林寺は、天文元年黙堂〓契によって曹洞宗に改められたとみてよいであろう。それではこの大洞とはどういう人であろうか、聯灯録の系譜を示すとつぎのごとくである。

〔曹洞宗系譜(3)〕

 大洞は伊豆を本拠としたが、武蔵にも教線を拡げ、児玉郡骨畠(こつはた)の長泉寺、比企郡市河(いちのかわ)の永福寺、埼玉郡菖蒲の長龍寺などの開山となっている。このあと海印契義を経て黙堂〓契に至るが、この二人の伝は聯灯録には載っていない。勝林寺の一年前に開いたという福厳寺は村国にあると縁起に記されているが、『新編武蔵風土記稿』では下新井村(現岩槻市南下新井)である。

 これには「禅宗曹洞派、三ヶ村長龍寺末、香積山ト号ス、開山黙堂〓契天文七年四月十六日寂ス、本尊ハ地蔵ナリ」と記されている。そしてここにも行基作と伝える薬師像を安置した薬師堂があるので、これも旧仏教時代の名残のある寺とみられ、あるいはこのとき曹洞宗に改宗された寺であるかも知れない。

 このほか越谷地域の曹洞宗寺院には、小曾川の慈眼寺、増林の清了院などがあったが、これらの寺に関しては、くわしいことは不明である。