中世の真言宗寺院

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古代に隆盛をみた天台宗は、鎌倉時代以後になると、新仏教の興隆に押されて停滞を示し、なかには新仏教に改宗する寺院も続出して衰退を辿った。なかには比企郡慈光寺をはじめ岩槻の慈恩寺など、根強よい寺院勢力を保持した寺もあるがその数は少ない。越谷地域では野島の浄山寺が、曹洞宗に改宗しているので、天台宗の寺院はまったくみられない。

 一方天台宗とならんで旧仏教を代表した真言宗は、逆に曹洞宗などの新仏数をしのぐ勢いで飛躍的な発展をみせた。これは新興仏教の特徴や長所を積極的に摂取包容したためで、このため武士や土豪層にもひろくうけ入れられた。ことに室町時代になると新義真言派が関東に教線を伸張し、各地に中心拠点をおいて郷村の隅々までその勢力を滲透させたので各地に新義派の寺院が急増した。しかも本寺・末寺というような強力な系列関係を樹立したので、荒地開発にともない新らしく建てられていく寺院は、いずれかの強力な寺院の傘下に置かれて掌握された。本末関係の確立は、江戸時代に制度化されたので、この本末関係をもって断ずることはできないが、すくなくともその傾向を汲みとることはできるであろう。

 越谷地域の真言宗寺院は、その数も絶対的に多く、しかもすべてが新義派で占られており、いかに新義派の滲透が強烈であったかを知ることができる。この系列を大別すると、京都仁和寺の流れを汲む四町野迎摂院等、下総名都借(現松戸市)清滝院の流れを汲む別府慈眼寺(現金剛寺)等、醍醐三宝院の流れを汲む瓦曾根照蓮院等、醍醐無量寿院の流れを汲む蒲生清蔵院等に分けることができる。そして当地域における仁和寺系統の拠点は末田の金剛院と倉田の明星院、清滝院の拠点は別府の慈眼寺、醍醐三宝院の拠点は西方大聖寺と金町の金蓮院それに清水(現野田市)の金乗院、醍醐無量寿院の拠点は原(現川口市)の密厳院とみることができる。ことに末田金剛院の系統は、四町野迎摂院をはじめ、西新井・大道・荻島・砂原・船渡・大里・間久里・七左衛門・見田方などにも及んでおり、その勢力の強大であったことが知れる。

 同じく仁和寺系列の倉田の明星院は、三野宮一乗院を拠点に、大沢・大道・大林・大杉などに及んでいる。また金町金蓮院は瓦曾根照蓮院を拠点に、越ヶ谷・増林・四町野・後谷などに及んでいるし、西方大聖寺は主に西方・東方に集中をみせている。そして名都借の清滝院は別府の慈眼寺を拠点とし、伊原・南百・蒲生・大間野にひろがりをみせている。このうち別府慈眼寺の法脉を、別府金剛寺蔵「伝法灌頂血脉相承」によってみると、「大日如来 金剛薩〓 龍猛菩薩 龍智菩薩 金剛智三蔵不空三蔵 恵杲阿闍梨 弘法大師 真雅僧正 源仁僧都 聖宝僧正 観賢僧正 淳祐内供 元杲僧都 仁海僧正 成尊僧都 義範僧都 勝覚僧正 定海僧正 元海僧都 実運僧都 勝賢僧正 成賢僧正 [高野金剛三味院(挿入)]頼賢阿闍梨 [東寺(挿入)]憲静阿闍梨[伊豆(挿入)]祐祥阿遮梨 [上総八幡別当(挿入)]源暹ヽヽ [同寺(挿入)]澄暹ヽヽ [世田(挿入)]澄尊ヽヽ [石上蓮花院(挿入)]澄秀ヽヽ [同院(挿入)]澄覚ヽヽ [同院(挿入)]澄慶ヽヽ [堀江証澄院(挿入)]秀善法印 [観音院(挿入)]元宥法印 [清滝院(挿入)]澄誉ヽヽ [同寺(挿入)]良秀ヽヽ(以下略)」となっており、天文十八年(一五四六)四月、善幸法印が清滝院の伝灯大阿闍梨法印権大僧都良秀から印信血脉を授けられ、別府に慈眼寺を開山したことになっている。

名都借の清滝院

 また『読史備要』と『仏教大辞典』付録の宗派系図によれば、空海 真雅深仁を経て聖宝にいたり小野流を称したが、これから観賢 淳祐 元杲 仁海 成尊 義範 勝覚を経て定海にいたり小野流のうち三宝院流に分れた。それより元海 実運 勝賢 成賢と続き頼賢にいたって意教流となり憲静、宥祥と続いている。このように法流系統はすでに中世からうけつがれてきたものが多く、近世の本末関係に大きな役割を与えたと考えられる。

 越谷地域諸寺院の本末表は、第四編に掲げたので、ここでは真言宗寺院を列挙しないが、そのほとんどは中世から近世初頭にかけての開山になるものである。しかしその多くは開山の時期やその事歴を伝えてないが、『新編武蔵風土記稿』や寺伝によってそれらが伝えられているものを掲げておこう。

 増森宝正院 増林の宝正院はもと清滝山不動院東照寺と称したが、江戸時代東照宮と同号であるのをはばかり、東正寺と改名したが、現在は宝正院と寺号が変えられている。開山は天文年間(一五三二~五五)、法印賢永という僧が、紀伊国から錫杖をつきながら当地に来り、当所に東照寺を開いたという。賢永は天正三年(一五七五)に没している。なお増森小島家の「記録帳」によると、同地の慈光庵は賢永法印のすすめで開基したものであり、天正三年八月、同所に申待供養の板碑を造立したとある。したがってこの板碑は同年に没した賢永法印の供養のため造塔されたものかも知れない。この板碑は完全な形で残されている二十一仏板碑であり、県の指定文化財に指定されている。また当地にある観音堂は、歴却山と号し、尊賢という僧によって大永三年(一五二三)に開かれたと伝える。

増森宝正院

 蒲生清蔵院 清蔵院は慈眼山と号し、天文三年(一五三四)祐範という僧が開山したと伝える。

 大沢光明院 光明院は山号を香取山、寺号を薬師寺と号し、その開山時期は不明であるが、「大沢町古馬筥」によると、当寺の過去帳には、天文六年(一五三七)からの記載があるので、おそらくこれ以前の開山になるものであるとしている。

 小林東福寺 東福寺は小林山虚空院と号し、康暦二年(一三八〇)の創建と伝える。寺内の薬師堂に安置されている薬師如来は、当地の土豪須賀若狭守が、南北朝の戦乱を避けて当所に奉置したものといわれ、古くからこの薬師についての和讃が伝えられている。この和讃は「小林薬師はだれたてた 長七大工がおたてある なにが主願でおたてある なにも主願はなけれども 花のようなる子をとられ 寺にまいりて花見れば ひらいたお花は散りもせず つぼみしお花が散りおちる 花もわが子も同じこと」とある。

 三野宮一乗院 一乗院は足利三代将軍義満の第三子(三の宮)が、応永十一年(一四〇四)に没したのをいたみ、当所に三野宮稲荷大明神として祀ったのが地名のおこりとも、寺の創(はじ)めとも伝える。一説には北条政子が元仁元年(一二二四)に一条院を開基したとも伝えるがつまびらかでない。なお当寺の一部の建築物は徳川将軍の旅館であった神奈川御殿の建築物が使用されている。当建築物は安政六年に当寺が焼失したとき、末田金剛院から譲られたもので、これは徳川綱吉の母桂昌院が金剛院に寄贈したものといわれる。

 大房薬師堂 大房の薬師堂はその昔、入江のほとりであったので、〝大江りの薬師〟とも呼ばれ、大同元年(八〇六)の創建とも伝えるがつまびらかでない。江戸時代当堂は大房浄光寺が別当となり、薬師堂領五石の朱印をうけている。