律令制下の神祇行政は、官社を定めて奉幣し、封戸を与えて社殿の修理や経営費にあてていた。そして神階を定めてその統制がはかられていたので官社は一応安泰であった。その後荘園の増大や政治の弛緩によって地方の政治が乱れるとともに、神祀行政の権威は有名無実になっていった。ことに坂東は平将門の乱以後、打ち続く争乱によって神領が押領されたり、社殿が破壊されたりして荒廃した。この官社の荒廃にかわって進出したのが武士層の氏神社である。氏神は荘園の拡大にともない、祖先崇拝と氏族の守護神としての性格を備えて各地に勧請された。なかでも代表的なものには平氏の日吉社、源氏の八幡社などがある。とくに関東では源氏の統領源頼朝が八幡宮を氏神と定め、鎌倉の鶴岡に八幡宮を勧請して社参を制度化するに及び、源氏の御家人がきそって八幡宮を領地に勧請したといわれる。
越谷地域の八幡社は、『新編武蔵風土記稿』(以下風土記稿と略す)では一四社を数えるが、いずれの社もその由緒を伝えないので明確でない。
たとえば越ヶ谷新町の八幡社は、文和二年(一三五三)の記年号がある板碑を神体としてその記年号を勧請の紀年としているなど、不明な点が多い。もっとも頼朝は八幡社だけを大切にしたのでない。たとえば寿永三年(一一八四)には武蔵国騎西・足立両郡のうちを豊受大神宮(伊勢神宮)に改めて寄進している。この神領を大河戸御厨という。
このほか武蔵・下総では飯倉御厨(児玉郡)・恩田御厨(大里郡)・葛西御厨(葛飾区)など伊勢神宮の神領が数多く安堵されている。したがってこれらの地域では伊勢神宮を勧請した神明社が数多く創建されていたことであろう。
越谷地域には、風土記稿によると、神明社が六社数えられるが、その由緒などは、その後御師や道者の活躍によってさかんになった伊勢信仰にもとずく勧請であるかいなか同じく一切不明である。わずかに越ヶ谷本町の市神社は、大沢福井家文書の記録によると、はじめ四町野の鎮守で神明社として祀られていたが、寛永年間市神として越ヶ谷に移されたという。このとき当社の棟札に嘉吉二年(一四四二)正月七日と記されていたので、この年を勧請の紀年にしているが、創建時の棟札か、再建時の棟札かこれもあきらかでない。
また風土記稿によると、越谷地域に浅間社が六社を数える。この浅間社は九世紀の中ごろ平安時代の初期から富士山への信仰に発するもので中世末期には足立郡・埼玉郡一帯に数多く勧請されたらしい。越谷地域の浅間社は同じく勧請の紀年やその由緒を伝えてないが、このなかに大沢の浅間宮が興味ある由緒を伝えている。すなわちその創建は、長元三年(一〇三〇)六月、大沢の住人深野源七郎が富士山に登拝したとき、富士の大沢の滝から五彩の光をはなった影向石を持帰り、大沢を流れる荒川の砂丘に祠を建てて影向石を祀ったのが浅間宮のはじめとしている。そしてこのときから当地を大沢とよぶようになったという。
また越ヶ谷中町の浅間社は、その創建の紀年を伝えないが、中世の紀年を記した奉納の御正躰(みしょうたい)が残されている。この表面は富士山をかたどった銅板で、裏面には「富士山内院御正躰 南無浅間大菩薩 上野介満範別当 本書応永三十三年(一四二六)六月一日 于時文明八年(一四七六)六月一日 別当中納言阿闍梨良清」と記されている。
このほか当地域の神社には中世編でふれた久伊豆社や香取社を除き、庚申社・愛宕社・弁天社・水神社・雷電社など多種多様な社が風土記稿に記されている。なかでも当時八一社を数えた稲荷社や三六社を数えた天神社などその数はおびただしい。これらは江戸時代に勧請されたものや、また古くからの産土社や氏神社などでのち改称されたものもなかにはあったであろう。